ロータリー創設から確立までの背景!

<如何に捉えるか?>

1912年1914年

<1913年>

 1913年-(明治46)- NY.州バッファローで、第4回国際ロータリー連合会が開催される。職業による会員の奉仕の在り方について活発な議論を展開!これが倫理訓への伏線となる。
 大会において、アイオワ州シュー・シティーRCのロバート・ハント氏に、「職業奉仕の在り方」についての考案作業が、依頼された。彼は全世界のロータリアン達からアンケートを取り、これを起草委員に諮って、分類整理し、簡素な表現とする作業に取りかかった。
 出席者930人。初めてイギリスとアイルランドの会員が参加する。
 カンザスシティーのラッセル・F・グライナーが会長に選任される。
 米、オハイオおよびインディアナ州の水害(死者多数、推定損害約5千万$)救済のために、ロータリークラブが米価25、000$を寄付する。ロータリアンに災害被災者への援助を要請したのは、この時が最初である!
 
 米・受入移民120万人。NY.で自動車ショー(80社、700台展示)開催。 
 米ロックフェラー基金発足-ロックフェラーが1億$を寄贈、人類福祉の為!
 連邦準備法制定。米アンダーウッド関税法(奢侈品除き平均27%に引き下げ)。
 米憲法修正第16条(累進所得税設置-年収3千$以上が対象)。
 トーマス・エジソンがトーキー映画公開。
 ハリウッドで劇作家のセシル・デミルらが映画製作スタート→この時期、アメリカの映画製作地はニューヨークやシカゴなどであった。そしてエジソン、バイオグラフなど9社が映写機、フィルムなど16の特許を独占して、トラストを結成していた。しかも特許グループは作品の長さを1本10分に制限していた。これに対立する独立映画製作者(ユダヤ資本が多い!)は、ロサンゼルスがストのない都市でニューヨークに比べて人件費が半分で済むことや、晴天が多いうえに海、山、砂漠とロヶ地が豊富であること、さらに特許グループの目が届きにくいことから続々と移住した。
 ユダヤ人青年実業家のレオ・フランク冤罪事件発生!
 米カリフォルニア州知事が「外国人土地所有禁止法」に署名、日本人移民は農業用地所有が不可能となる(日本人以外の外国人には適用されず、事実上の排日、人種差別法であった)。当時カリフォルニア州では約3万人が農業に従事し、保有耕地は1万1千ヘクタールに達していた。さらにワシントン、オレゴン等13州が追随して禁止法を成立させた。
 日本では東北の水害、凶作深刻。年末に、日本の全人口5,291万1,800人と発表される
 独・墺・伊「三国同盟」を強化!英・仏・露の「三国通商」に対抗する。

※ 個人奉仕か団体奉仕かの論争起こる
<「ロータリーの歴史」〜75年の歩みを振り返る〜、福岡西RCより>
 ロータリーは個人奉仕が主であって、その真髄は職業奉仕にある。最近は各RCが慈善的事業に勢力を集中して、あたかもロータリーは社会福祉事業を請け負う慈善団体であるがごとき観を呈している。この風潮は改められるべきである。われわれはロータリーの本旨に立ち戻るべきであろう。という論旨が「個人奉仕」派の主張であります。
 これに対して、ロータリーが奉仕の理想を実現するためには、先ず社会一般にロータリーの評価を高め、世間一般の人々からロータリーの掲げる奉仕の理想を理解され、ロータリー活動に好意と共感を呼び起こす事が大切である。ロータリークラブが社会福祉事業に関心を払って、これを援助する行動は、今や各方面からロータリー活動の大きな価値を認識されつつある。
 さて、このような大論争の起こった素因は何かといいますと、それは、当時米国各地のRCが精力的に取り組んでいた「身体障害児」救済の問題であります。ロータリークラブが身体障害児問題に関心を示したのは可成り長期に亘っていますが、最初にこれに取り組んだのは、1913年頃ニューヨーク州シラキューズRC であったと言われています。次いでオハイオ州のトレドRCが行動を起こしたのですが、そのきっかけとなったのは、会員の一人が街で見かけた古ぼけた自家製の車椅子に乗った少年から話を聞いて、身体の不自由な子供達が世間から見捨てられ、教育の施設もなく悲惨な環境にあることを知って、クラブ例会において、声涙下る大演説をしたことが全会員の琴線に深く訴えるところがあった、ということであります。この問題を語る時に、最も忘れ難い人物に、エリリアRC.のエドガー・アレンがいます。
 エドガー・アレンは、エリリアRC.に入会する以前から身体障害児問題に関心をもって、個人的な活動をしていた人物であるといわれていますが、ロータリアンになったのも、ロータリーによって身障児に対する救済運動を拡大強化したいとの希望を持っていた為であるとも伝えられています。
 アレンは、身障児達から Daddy Allen "アレン父親ッちゃん"と呼ばれる程に、この問題に献身的に活躍し、やがて全米各地に身障児問題協会が設立されるという偉業の原動力になったと言われています。
 身障児問題協会はアメリカ各州の中でも特に中小の都市のロータリークラブによって設立され、或るクラブでは専門の病院から教育施設に至るまで、クラブが主となって運営にあたっていた所もあったということです。
 しかしながら、ロータリアン達はそれぞれの企業の経営者であって、日常多忙な者ばかりでありますから、病院や教育施設の運営に専念することは困難な場合が多く、クラブの中には、これが運営の為に多大の費用を支出することに苦しんでいたものもあったといいます。すなわち、一般的にはロータリーの偉大なる奉仕事業として社会の高い評価を受けたものの、一部では事業の失敗等も起こったところもあったということであります。つまり、今日もロータリーの社会奉仕に取り組む場合の注意事項となっている「継続的な社会奉仕を計画する場合には、中途半端なことにならないように」、「その為に世間の失笑を買うような事態にならないように」という結果が現実に起こったところもあったようであります。

 ポール・ハリスの著書によれば、ロータリーは個人奉仕を重視すべきであり、職業奉仕が奉仕の真髄であるとの主張を強く持っていたのは、主として大都市にあるロータリークラブの会員であったということですから、大都市と中小都市の場合では、地域社会のニーズが多少相違しているということもあったろうと思われます。
 この問題をめぐる論争に苦悩したエドガー・アレンは、衷情をポール・ハリスに書き送ったと伝えられていますが、結局ポールなどの配慮もあって、1923年のセントルイス大会における"社会奉仕に関する決議第34号"となったものであるといわれています。
 ポールの著書によると、この大会決議は、テネシー州ナッシュビルRCの起草になるもので、決議委員長は同RCのウィル・メーニアなる人物であります。

※ 永井荷風とシカゴ
 荷風はその文学的出発点において、ロータリー創設期のシカゴが重要な役割を果たしている。
 彼は1903年ミシガン州のカラマズー大学に留学、翌年シカゴの米・友人を訪問した荷風は、彼の著「アメリカ物語」で、恋人達の優しく、あけっぴろげな愛情表現を見て、「幸いなるかな自由の国に生まれし人よ」と感嘆している。
 大都市シカゴの大デパート、新大陸の雄大な自然、若い知的な女性との文学論の話等、非常に刺激的な青春放浪が、後に活きる。