<1912年>1912年-(明治45)- クラブ数は50、会員は約5000人と前年比で2倍増!ミネソタ州デュールス(Duluth)で第3回国際ロータリー連合会を開催する。 カナダも加え、41クラブからの登録者は598人に達し、前年の4倍であった。 「全米ロータリークラブ連合会」を「ロータリークラブ国際連合会」に改称! 大会で議長を務めたポール・ハリスは会長を辞任することを表明する。 今後はロータリー活動を見守り、目立たず、出しゃばらない形で奉仕を行いたいとの意向であった。彼は名誉会長となる(名誉会員制度の採択)。その後、彼はシカゴ市丘陵地、モーガンパークの森を見晴らせる丘(カム リー・バンク)に居住するようになる。 ハリスの後任会長にはペンシルバニア出身で、ハーバード大卒、弁護士のグレン・ミード氏が就任した。 桑港とオークランドでICGF.の先駆けの会合。 ニューヨーク州シラキューズRC、オハイオ州トレードRCは身体障害者養護問題への取り組みを始め成果を上げていた。これらの動きは、「決議23-34」誕生への伏線となる。 最初の「地区制度」として Division を設置。米に5、カナダ2、グレートブリテン&アイルランド1と計8地区が置かれ、副会長が管理する方式。 国際ロータリークラブ連合会綱領の一部を変更。 連合会綱領に加え、さらに次に掲げる"ロータリークラブ定款・細則"のモデルを決定し、推奨する。 1 全ての合法的な職業の価値の認識を深め、会員が社会へ奉仕する機会が持てるよう、各会員の職業を尊重すること。 2 実業と専門職業で高い「倫理規準」の維持を奨励すること。 3 考え方とビジネスの取引方法を、お互いに知らせあうことによって、各会員の仕事の能率を向上させること。 4 奉仕の機会をつくりだし、成功への一助とするために、交友関係に合理的な考え方を導入するのを促進させること。 5 各会員の公共の福祉への関心を刺激し、「地域開発」で他人に協力すること。 最初の「歯車徽章」を採択、また連合会のカラーをロイヤルブルー&金色に! そしてこれをバッジや用箋などに用いるのを承認した。 また会員がロータリー・クラブに入会するのは、個人の資格においてであって、会員が属する企業を代表するものではないことが決定された。 大会終了後直ちに、理事会は、統一された様式の会員証を定めた。 民主党のウッドロー・ウィルソン(プリンストン大、学長)が第28代大統領に当選(435票獲得)。 米・受入移民83万8千人、米・失業率4.6%。 ニューメキシコ、アリゾナ州が連邦加入。米ラグタイム風ジャズが流行。 詩人のハリエットモンローがポエトリー誌創刊、シカゴ文学グループ活動! 米ジョージア州サバンナで、JG.ロー夫人が初めてガールガイドを組織、翌年ガールスカウトと改称。 米・国家公務員の8時間労働制を採用する。 4/14、英・豪華客船タイタニック号氷山に激突、沈没する、犠牲者1,513人。 全米では自動車94万4千台VS 東京、自動車は市部で262台、郡部で37台。 中華民国成立、孫文-「国家の本、人民あり」、清宣統帝退位-中国王朝終。 第2次インターがバーゼルで反戦決議。 サンフランシスコでトローリー式の市営ストリートカーが運行開始。 明治天皇崩御(59才)、諒闇不景気→大正。 ※ウィルソン大統領、就任演説より (各規制を人間性の利益の観点から訴求) 「人の心はわれわれに奉仕する。人の生命は宙ぶらりんになっている・・ すべての正直な人たち、すべての愛国者、あらゆる前向きの人たちを私の傍らに招く。神の助けを借り、もしもその人たちが私に相談し、支持するならば、私は必ず期待に沿うつもりだ。」※ ロータリーの徽章(6本の輻、24の輪歯と楔穴を備えた歯車) もともとはシカゴRCのM・M・Bear氏考案の車輪マークが、そのルーツである。しかし1910年に16 RC.が集まり、National Association of Rotary Clubs が成立した段階では、各クラブの徽章は車輪をベースにするも、多種多様であった。そこで1912年のデュールス(Duluth)大会に先立って全ロータリークラブが一様に使用する徽章で、しかも車輪を基調とした図柄を考案、提出するようにと、全クラブに要請があった。そして検討の後、「濃紺と黄金色の歯車付き車輪」がロータリーの正式徽章として採用された。 しかし、8年後に「この歯車は技術的に見て正しくない。これでは回転できない!」とのクレームが出る。そこでダラスRCのオスカー・ブジョルジとシカゴRCのチャールス・マッキントッシュの両氏に訂正が依託されることとなる。 かくして、1920年に採決、公表された彼等二人の図柄が採用され今日に至っている訳である。なお1923年にマイナーチェンジがあり、車輪の鍵穴が追加された(手続要覧参照)。 <ポール・ハリスの言葉-1912年> → ポール・ハリス語録より 世界は一つの大オーケストラのようなもので、私たち一人一人は、自らの取るに足りない一部を演奏しているにすぎません。あなたの楽器や私の楽器の成否は、その音量によって決まるのではなく、周囲の楽器と如何に完璧に調和しているかによって決まります。得意になって、自分のホルンを高らかに鳴り響かそうとする人は、調和を乱すだけでなく、他の奏者にとって迷惑ともなるのです。<ポール・ハリスから引き継がれた初期ロータリーの指導者たち〔1〕> -各会長のコメントは1916年&17年のRI大会記録より抜粋 (1) グレン・シー・ミード(Glenn C. Mead) 第2代RIP. グレン・シー・ミードは、米国ペンシルバニア州コーリ?の生れで、23才でハ?バード大学を卒業後、フィラデルフィア市で古典文学を教え、同時に法律の勉強に没頭した。1900年に弁護士会員になり、1911年から1928年フィラデルフィア市の次席法務官を務めた。 1928年独立して弁護士を開業し、1954年5月24日に死亡した。 彼は、1910年フィラデルフィア・ロータリークラブ結成に協力し、その初代会長となった。後に国内連合会の理事となり、1912-13年度の会長に就任し、ロータリー財団保管委員をも務めた。 ポール・ハリスと彼は長きにわたり、親友の間柄を保った。 『私自身の考え方は、ロータリークラブは主として個々の会員の全般にわたる啓発のためにあるので、クラブとしての公共の事柄についての活動範囲は、断然限定さるべきものだと考える。』 (2) ラッセル・F・グライナ?(Russell F. Greiner) 第3代RIP. 彼は、米国オハイオ州フェアボーンに生れ同州ゼニア(Xenia)単科大学に学んだ。後に、ミズリー州カンサスシティーに移り、グライナー・フィフィールド石版会社社長となった。彼は1910年カンサスシティーRCが結成されるやいなや、その創立会員に加わり、翌年同RCの会長となった。国際連合会においては、1913-14年度の会長、副会長、ロータリー財団保管委員、各種委員会委員及び委員長をつとめた。 会長在任時には既存のほとんどのクラブを訪問し、またできる限りの支援に努めたと言われる。大変エネルギシュな人物であった。 社会人としては、カンサスシティー保安委員会副委員長、市会議員、職業安定会議議長として活躍した。彼は1961年6月24日に93才で長逝した。その間、国際大会への出席は40回に達するほどであった。 『私は、ロータリークラブは、皆、多かれ少なかれ公共の事柄に関心を持つべきだと強く主張する者だが、しかし、市民全般によって取り上げられるべきような問題については、正式に公表すべきではないと考えざるを得ない。』(3) フランク・エル・ムルホランド(Frank L. Mulholland)第4代RIP. 米国オハイオ州トレドで弁護士を開業していたムルホランドは、ミシガン州ディスコに生れ、同州のアルビオン単科大学及びミシガン大学に学んだ。 彼は1912年創立のトレドRCの創立会員で、その会長となった。 国際連合会では、1914-15年度の会長、理事、諸種委員会の委員長をつとめている。 彼は全米における重要な労働問題の顧問及び鉄道労働争議の調停役をつとめた。1926年及び1934年、鉄道労働法起草委員をつとめている。彼はまた建材会社、商社等の取締役であった。 1940年から49年6月7日に他界するまでの間、トレド市の不具児童救済会の会長、第一次大戦中は戦地において社会活動に従事し、西部戦線報道官をつとめ、後に赤十字班に帰属し、その階級は大佐であった。 (4) アレン・ディー・アルバート(Allen D. Albert) 第5代RIP. アレン・ディー・アルバートは、米国ペンシルバニア州ウィリアムポートに生れ、ジョージ・ワシントン大学及びNY.のコロンビア大学を卒業し、ワシントン・タイムス、コロンバス・ニュース、ミネソタ・トリビューン等の記者生活や経営にあたった。 その後ミネソタ大学の授となり、音楽、美術、建築の評論家として、名をなしたばかりでなく、社会学者として幾多の業績を残している。 ロータリアンとしての彼は、1911年にシカゴRCに入会したが、その他エバンス、ジャクソンビル、ミネアポリス等のRCに籍をおいたこともある。テラ・ホーテ及びパリスRCの名誉会員でもあった。 国際連合会では、1915-16年度の会長、理事、委員及び委員長として活躍した。 彼は多くの学会に属し、エバンスビル単科大学から名誉博士の学位を受けた。 1933-34年のシカゴ大博覧会では、その会長補佐となり大いに活躍した。 1945年サンフランシスコで開かれた国連の国際機構会議に米国代表の顧問役をつとめた。 宗教界でも功労を認められていた。 『本大会に提起されたあらゆる問題の中で、次の問題ほどロータリーの将来に関わる大きな問題はないと私には思える。即ち、クラブは公民活動にクラブとして参加すべきか、それとも各個人として参加すべきかの問題である』 |