ロータリー創設から確立までの背景!

<如何に捉えるか?>

1907年1909年

<1908年>

 1908年-(明治41)- PH.は再び会長に立候補、選任される。
 しかし途中でハリー・ラグルスと交代→シェルドン宣伝拡大委員長の罷免問題が発生!
 2番目のロータリークラブが、弁護士ホーマー・ウッドによりカリフォルニア州のサンフランシスコに結成された。
 シカゴ・ロータリーにチェスリーR.ペリーとアーサー・フレデリック・シェルドンが入会する。
 ロータリーの会員は230名をこえた。
 そしてハリスとペリーは拡大のために町から町に飛び歩き、設立を要請するキャンペーンを始める。
 宣伝拡大委員長はペリーに!

 <ニコニコ(罰金)箱と会食会>
 その起源は、初期のシカゴロータリークラブ。会員は食事をすましてから会場に集まることになっていた。また、別に会費というようなものを徴収していなかった。その代わり、欠席した会員は、その都度50セントの罰金を払うことにして、これを罰金箱に入れることになっていた。
 後に1908年、この他に、例会通知に対し、出欠の返事を出さなかった会員にも50セントの罰金を払うことにした。このことは割合に良く励行され、ラッグルスに次いで会計となったチャピンの報告で、過去9ヵ月間に集まった罰金は533$に及び、諸経費を差し引いて1.84$残ったといわれる。
 その後非ニックネーム敬称利用ペナルティー・遅刻等にも罰金科料された。なお遅刻の気まずさから一緒に会食する習慣が生まれてきた(チャーリィー・ニュートンが提案)。
 これをクラブ定款に初めて明記したのは、オークランドRCであった。
 
 英陸軍のR.パウエル将軍がボーイスカウト創設。資源保護のため全米国土保全委員会、ギフォード・ピンショ(功利主義的自然保護者)委員長で発足!
 自然保護者ジョン・ミューアがヨセミテのヘッチヘッチー渓谷ダム反対運動。
 《フォード社が廉価な大衆車「フォードT型」を850$で発売!翌年生産工程を合理化、5年後それが独特のフォードシステムに発展し、大量生産される。その後、19年間モデルチェンジなし。米モータリゼーションを後押しする(この年の米生産台数6万台強が、1916年-161万、1923年-403万台に急増!)》 ニューヨークに初の摩天楼、47階建て「シンガー・ビル」完成。
 T.ドライサーがシカゴで新聞記者をしながら作家活動中。全米電話648万台。
 伊シチリア島で大地震、メッシナを中心に死者は推定15万人!(欧州最悪)
 日本人労働者の米国への渡航制限を内容とする、「日米紳士協定」が成立。
 第1回ブラジル移民(158家族、781人)笠戸丸で神戸出航。「赤毛のアン」。