<1907年>1907年-(明治40)- ポール・ハリスがシカゴRC会長に就任する。ハリスは運動の目標の中に社会奉仕の理念を導入することを目論む。 「社会奉仕」という概念は、クラブの創設理念からは大きくかけ離れていた。 会員達は全くの酔狂としか思えないこの概念に対し、最初は非協力的だった。 <社会奉仕の第一号> しかし、シカゴ市に公衆便所を設置するプロセスでの体験と、苦労して成し遂げた達成感が、その後の新しい道を拓いた。 ロータリーがYMCA、シカゴ商業協会、商業クラブ、工業クラブ、市民クラブ、加えて市行政当局等20以上の団体をリードして実現させる。 当時、公衆便所は、酒場とデパートにしかなかった。しかもこれらを利用できるのは酒場やデパートの常連客に限られていたことから、既得権が危うくなった方面から、実行委員会に強力な圧力がかかり、ハリスや仲間の市民運動家達の活動は困難をきわめたといわれる。 この設備は、ロータリーが初めて公共事業に参加した記念碑であり、社会奉仕活動をした最初の例として今でも同じ場所に残っている。 鋳鉄製の入り口は、市役所の堂々とした柱と隣り合わせで時代遅れの感はあるが、内部の設備は90年以上前と少しも変わらず、市民の役に立っている。 この仕事自体は、天地を覆すようなものでも、歴史に残るようなものではなかった。 大切なのは、これ以後ロータリーの方針が大きく方向変換したことである。 クラブは、内部よりむしろ外部へ目を向けるようになった。 10月、NY.で株価大暴落!モルガン・ロックフェラーら巨大財閥が金融支援。 日米摩擦の萌芽!→ 日米紳士協定(日本、対米移民の自主規制)。 米国への年間移民数が史上最高を記録する!(1,285,349人)-失業率は2.8%。 "1880年代から急増する南・東欧(伊・露・ポーランド等)新移民が中心! 貧しく非英語、カソリックやユダヤ教徒が多く、その異質さが目立った" 哲学者・心理学者のWilliam James ジェームズが有名な「プラグマティズム」を発表し、アメリカ哲学界に旋風を巻き起こす。これはドイツの観念論に反対し、真理の根拠を実際的効果に置き、実用的価値・実践的帰結を追求しようというアメリカの"開拓者精神"に基づく哲学である。 プラグマティズムはアメリカ哲学界に旋風を巻き起こし、その後デューイが更に発展させた結果、人文科学に理論的基礎を与える一方、アメリカ人の生活の哲学としても浸透していった。 米艦隊「ホワイト・フリート」が世界一周航海に! ※ ロータリーと歌(心して歌おう!) 老若問わず、紳士が揃って高唱する。これもロータリーらしい姿と言われます。 この習慣は米、豪、日本、ニュージーランド、カナダ、ナイジェリア等で顕著だそうです。 そもそものルーツは、シカゴRCの「第五の男」と呼ばれたハリー・ラッグルスに遡ります。 彼は創立直後のシカゴRCで、ともに合唱することを提案します。 承認されると、ラッグルスは常にソングリーダーとして活躍し、椅子に飛び上がり、「さあ、みんなで歌おう」と大声を張り上げて叫んだそうです。 それは更なる親和の雰囲気作り、クラブの一体感の醸成、だれがちな例会を、メリハリをつけてきちんとさせる等の願いがあったと伝えられています。 このような事もあったそうです! 外来のある講演者が話を進めている時、その話の筋道、落ちが卑猥であることを知っていたラッグルスは、やおら立ち上がり、大声で歌いはじめたそうです。 彼の気持ちを察した会員が唱和し、この話の腰をおり卑猥な雰囲気に落ちる事を避けたそうです。 もちろん後でラッグルスはその講演者に謝罪しました。 しかし会員は、この劇的な対応でロータリーの会合の品性を保てたと、大いに賞賛し、喜んだそうです。 我々は、「ともに歌う!」ことにも、多くの意味、願い、歴史があることをもっともっと噛み締めるべきです。 それにつけても初期ロータリーの姿を振り返る時、次のポール・ハリスの言葉に感じ入ることが多いのです。 「ロータリーが他の"奉仕を掲げるクラブ"と異なる点は、その仕組み、特徴はさておき、何よりもその理想を希求する熱意の、熾烈にして確固たる点に存するのである」、 「弁説だけではロータリーのルネッサンスの目的を達成することが出来なかったのは明らかである。それには確固たる行動が必要だったのだ!」 ※ スタティスティシアン( Statistician ) 当時のクラブ内の係り名。会員同志の取り引きの記録をとって、例えば洋服屋のH.E.ショーレから、何某と何某が洋服を何着、何程の価格で買った」とか、「石炭商S.シールから石炭を何トン買った」、等の記録が残っている。このように会員間の取り引きは厳しく義務付けられていた。 しかし「シカゴでの公共精神の推進」という目標付加から、奉仕派が生まれた。 |