<1905年>1905年-(明治38)- 2月23日夜、弁護士のポール・ハリスほか計4名が、シカゴ市のディアボーン街ユニティービル711号室に集まりロータリーが発足する。それは相互扶助クラブ(互いに背中を掻き合うクラブ)のようなものであったが、"親睦と友情"を殊更に、大切にするという特徴を有した。(同席者-石炭商S.シールに加え、鉱山技師G.ローア、洋服商H.E.ショーレ) * 『ロータリーの特徴は、革命的というよりむしろ進化的』(P.H伝より) * 『ひっそりした心の交わりのうれしさ』(カーライル、PH.たびたび引用) 隔週1回、6月〜シャーマンハウス。連続4回無届欠席資格停止の罰則成立。 10万人のデモ隊に、一斉射撃!ペテルブルグで「血の日曜日」、冬宮前。 第1次モロッコ事件(独・仏の覇権争い)。第2次日英同盟(攻守同盟に!) シカゴ・ディフェンダー誌創刊、一部2セント-黒人向けの初の有力新聞。 アインシュタインが「特殊相対性理論」。改革派のダンがシカゴ市長になる。 米の新しい労働者組織IWWがAFLに対抗してシカゴで結成される。 ペンシルベニア鉄道がNY.&シカゴ間を18時間で結ぶ列車の運行を開始する。 5/27?日本海会戦の後、米・ポーツマス条約にて日露戦争が終わる。 日本基督教女子青年会(YWCA)創立、会長に津田梅子。東北地方は大凶作! <注> ポール・ハリスのロータリー観 (PH.著、「ロータリーの理想と友愛」より抜粋) 「ロータリーのルネッサンスの足音は1906年の後半頃から聞こえ始め、1907年に入ってその響きようやく高く、1913年まで騒擾は継続した。 この動揺を経て、シカゴにおける相互利益と友愛を目的とする地方的集団から、国際的に拡大し、かつ社会的功績を認められる団体に発展した。」 <注> ロータリーのルーツを探ろう(ROTARY MOSAIC より) ロータリーが誕生して間もない内に、ロータリーの開拓者達が、ほとんど現在に近い進化過程に到達していた洞察力というものは、実に驚くべきことである。 初期の記録、特に最初の十数年の大会記録を研究することは、なぜロータリーが生まれ、存在しているのか。なぜその組織ができたのか。様々な手続き・政策・方針、諸プログラムの背景等、あらゆる疑問を解きたいと願うロータリアンを裨益するところ極めて大である。 <注> 当時のシカゴ(ポール・ハリス談-ROTARY MOSAIC より) シカゴは20世紀の始めに至るまで、いわゆる開拓都市の特徴の多くを持ち続けていた。商業道徳は地に墜ちていた。悪意と不信の深刻さは破壊的であるとさえ言ってよいほどであった。 ある意味ではシカゴの危機とも言われる時が19世紀の終わり、第1回世界博覧会に続いて起こった不況時代にやってきた。それまでは当時の実態からすれば相当立派だと考えられる水準を維持していた実業人達までもが、そのたしなみをかなぐり捨ててしまった。 <注> 革新主義の時代とは? 20世紀初頭の、約20年間はアメリカでは「革新主義の時代」と称される。 フロンティアの終焉、南・東欧移民の大量流入、急速な工業化、都市の勃興、「金ぴか時代」という騒擾期を経て、改革の気運が全米で盛り上がった。 「革新主義の時代」 Progressivism → 政治エリートと知的エリートの接近! まず市政、州政レベルそして労働運動(IWW)等で多くの改革が試みられた。 オハイオ州、トリド市のサミュエル・ジョーンズ氏は成功した実業家だったが、「人からして欲しいと思うことは、人にもその通りにせよ」というイエス・キリストの山上の垂訓の一節、いわゆる「黄金律」を標語として自分の工場で八時間労働、最低賃金制、有給休暇などの改革を導入し、「黄金律のジョーンズ」と呼ばれた。 サンフランシスコのフィーラン市長、ニューヨークのロー市長も腐敗市政の浄化、諸制度の改善に成果をあげた。 ウィスコンシン州のラ・フォレット氏も革新知事として特筆されている。同州は「民主主義の実験室」と呼ばれた。またマックレーカーズ(暴露屋)も目立った。 さらに東部名門出身の高潔なセオダー・ローズベルト(TR)、巨漢のタフト、南部出身で正真正銘の学者であるウッドロー・ウイルソンの三代の大統領も果敢な改革を実行していった。 具体的には「トラストバスター」の立場、スクエアディール(公正な扱い)、連邦所得税、関税引き下げ、連邦準備銀行法、クレイトン反トラスト法等。外交は棍棒外交、ドル外交等で覇権主義的!→TRの「ニュー・ナショナリズム」(規制された独占)からウイルソンの「ニュー・フリーダム」(規制された競争)に移行した。 「革新主義」は、ちょうど経済的好況期に当たっており、総じて楽観主義的な道徳的改革運動の色彩が濃かった。それはまたビッグ・ビジネスの圧倒的な力に対する「教養ある中産階級」の反発でもあった。 <注> 「革新主義の時代」の解釈 この時代を概観する時、1950年代後半から60年代の合衆国の最先端の議論であったリチャード・ホーフスタッターの研究は欠かせない。 彼の主張は以下のようなものであった。 《アメリカ研究案内-東大出版会より抜粋》 <都市化が進行する中での都市住民の関心、しかも好景気であった経済状況を反映して、革新主義は一方で、時代の大きなうねりであった工業化そして都市化を積極的に受け入れようとしていた。この期の運動は公共料金の引き下げを要求したり、ボス政治支配を批判した。そうした人々の行動は、工業化と都市化が進む社会において、より合理的である都市環境また民主主義のあり方を求めた運動として、改革という名に値するものであった。 ただし、合衆国の改革運動はつねにより民主的な社会を目指すという単純なものではなく、同時にその基底に、反主知主義的性格など複雑な思想や行動領域を含んでいた。革新主義も同様であり、その運動の多くは実際のところ、急速な工業化・都市化、さらには移民流入という社会の大きな変化に一面で不安を抱く、旧中産階級の指向でもあった。 そうであれば彼等の運動には、改革とともにアングロ・サクソン的文化や伝統的社会道義・秩序を守ろうとする強い体制側の動機づけが混然として組み込まれていた、今世紀初めに禁酒法運 動や優生学的議論が大きな盛り上がりを見せたのも、そのような文脈で理解すべきものである。・・・民主化への傾向の一方、今世紀初頭の合衆国には社会主義を受け入れず、労働運動に対しても決して寛容と言えず、さらには黒人隔離制度が進行するという、今日から見れば非民主的ともいえる保守的性格があわせて顔を覗かせた。> → このように革新主義の複雑な二重性を表裏一体のものとして説明しようとするのがリチャード・ホーフスタッターの研究であった。 この後にロバート・ウィービー等の研究が続く。 <注> 新移民と革新主義 → 多様な革新主義者の中には労働者や白人も含まれていたが、ほとんどはWASP(ワスプ)か、幾世代も前にアメリカに移住したヨーロッパ人の子孫で中産階級が中心だった。アメリカ人の本流として建国以来のアメリカ民主主義の擁護者をもって任じる彼等は、急速な工業化、都市化、移民の急増による多様化の進展、多発する労働争議等の20世紀初頭のアメリカ社会の 混乱に強い危機感を抱いていた。 (アメリカの20世紀'上'-中公新書) ※ ピューリタニズムとフロンティア精神 - アメリカの独自性の追求 アメリカの特質を民主主義であるととらえ、その源を探るという形でのアメリカ論は、アメリカ人自身によっても、またアメリカに関心を抱く外国人によってもなされてきたが、日本のアメリカ研究の伝統を築いた高木八尺(やさか)教授 <1889〜1984、日本におけるアメリカ研究の創設者、一高時代には内村鑑三、新稲戸稲造に師事し、1915年東大政治学科卒、留学後東大、学習院大学で政治学を教えた。31年に公刊した「米国政治史序説」は、現在でもアメリカ独立革命の古典になっている。太平洋戦争時には日米の調整を図るため近衛文麿のブレーンとして、また終戦工作の一員として活躍した。67年の文化功労者である。> は、ピューリタニズムとフロンティア精神とを、アメリカをアメリカたらしめた根本的要素として挙げてきた。これは戦前・戦中・戦後を通じての高木教授の一貫した学説であった。 ただし高木教授の場合、ピューリタニズムという語は非常に広い意味で用いられている。 『アメリカ』においては、ピューリタニズムは「精神的な世界観、理想主義的な人生哲学」を指すものとされ、そうした見地から、「エマソンやリンコーンが渾然たるピューリタニズムの産物であること」や、「現代の革新主義(プログレッシヴイズム)の政治思想も、実用主義(プラグマティズム)の哲学思想も、本質的にはピューリタニズムの精神に遡りうべき要素を含むというべき」ことや、今日においても「ピューリタニズムはアメリカ人の言動に力強く働いているといえる」ことが主張されている。 高木教授のいうアメリカのフロンティア精神は、「アメリカ史におけるフロンティアの意義」の論文によってアメリカ史学史上不朽の名を残した、フレデリック・ジャクソン・ターナーのフロンティア説の影響を深く受けている。 すなわち、フロンティアは「辺境」と訳され、「新大陸の移動的人口が自然を開拓する最前線を画し」、「未開大陸の自然に向かって打寄せる文明の波打ち際」であるとされ、そこに形成されるのは「自主独住の、独立人の社会」であり、その社会は「当然にきわめて民主的また平等」であって、アメリカの民主主義はフロンティアにおいて涵養されたという説明がなされたのである。 ターナーの学説を踏まえつつ、高木教授は、ピューリタニズムとフロンティア精神の両者がアメリカ精神の形成の原動力であったことを強調し、「ピューリタニズムのもっとも強健闊達の生成が辺境の涵養によって持ちきたらされた」と主張して、両者を結び付けて論じ、あるいは「米国国民性とその外交政策の基調」の中で、ブリス・ペリーの説を引き合いに出して、「個人が神に対する単独の面接」と「単身荒野と戦う」ことの二つが、アメリカ人の性格形成の大きな力だったと述べているのである。 ところでターナーは、北および西ヨーロッパからの移民を中心とするいわゆる「旧移民」はアメリカ民主主義に適しているが、南および東ヨーロッパからの「新移民」がアメリカのフロンティアでアメリカ人となる可能性については、当事の多くの人々と同じく懐疑的であったといわれる。 高木教授も、1931年に出版された『米国政治史序説』において、「米国史を通覧するに、それは畢竟するに一貫してアングロサクソン系の民族の発達成長の歴史である」と述べ、「初代以来の英人系の一民族は、其の鞏健(きょうけん)なる性格と伝統とを根拠とし、諸民族の移住を常に包容し つつ、新大陸の自然の征服に専心没頭した」と説いている。日本のアメリカ学は、アメリカの特質を、アングロサクソンの歴史としてとらえ、ピューリタニズムとフロンティア精神とをアメリカ精神の源流と考えるところから出発したのである。 このようなアメリカ特質論を、ヨーロッパ人のアメリカ論の古典とされているアレクシス・ド・トクヴィルの『アメリカにおけるデモクラシー』の議論と比較すると、トクヴィルがピューリタニズムの影響力を重く見ず、またフロンティアの意味を異なった観点から読み取っていることが注目される。 彼の意見としては、ピューリタニズムがたんなる宗教上の教義であるにとどまらず、きわめて民主的な政治哲学であったことを強調しているのが、目につく程度である。されど、トクヴィルはピューリタニズムを引き合いに出すことはほとんどしていない。 すでによく知られているごとくトクヴィルは、「アメリカの社会の研究を進めるにつれて、諸階層の平等こそ根源的なものであって、個々の事実はそれに由来するものと思われるに至り、私の観察は、すべてこの中心点に帰着することに絶えず気づかされた」ということを、『アメリカにおけるデモクラシー』の序文で述べているのであり、彼にとっては平等こそがアメリカの最大の特質なのであった。 さて「アメリカのイメージ」についてふれたい。ターナーの説には、新世界の自然を切り開いて文明社会を打ち立てたのがアメリカの歴史であるという、アメリカ人の根本的な自己意識を反映した側面があり、それは、実証的研究によってターナー理論がいかに修正されてきているかということとは、一応無関係なのである。自然の開拓に独自の意味を与えていったアメリカの自己イメージ形成の仕方自体が、他国の場合と比べた場合非常に独特なのであった。 アメリカの自己イメージを作るうえにおいては、植民地建設時代に新大陸の自然がどのように見られたかが大きな役割を果たした。 ピューリタンにとって、アメリカはまず海を渡ったのちにたどりつく<カナンの地>であるはずだった。空気は澄みわたり、水は清く、緑豊かな楽土であるはずの土地が、不毛で冬の寒さが厳しい場所であることが分かったのちも、ピューリタンの指導者たちは、しばらくの間は西部の奥地に開拓を進めることに反対であった。 やがて「西部への進出、そして発展がキリストに仕える道である」という考えが生まれ、アメリカは約束の地そのものではなく荒野であって、そこを通り抜けなければ約束の地には達しないと解釈 されるようになった。 ピューリタニズムの研究家であるアラン・ハイマートによれば、17世紀の後半になると、荒野での苦しい体験によって鍛えられることに積極的な意味が与えられるようになり、荒野の征服は神の召命であるとされ、17世紀末までには、当時のフロンティアに住む人々の素朴な生活をむしろ美徳と見なすような考え方も出始めたという。 1630年にジョン・ウインスロップに従ってアメリカに渡ってきて、ボストンを中心にいわゆる<バイブル・コモンウェルス>を建設したピューリタンに与えられた自己像は、ウインスロップが聖書から引用した" 丘の上の町 "というものであった。 しかし、1670年には、「荒野への使い( errand into the wilderness )」 という表現が、牧師の説教の題目に用いられるようになった。 かくして、ピューリタンの使命感とフロンティアの西への大移動という二つの要素(すなわち'荒野への使い')を軸としてアメリカのイメージを組み立てることは、植民地建設以来のアメリカの発展の根本をとらえるものであるといってよいだろう。 そもそもブルックスによれば、アメリカ精神の歴史において、ピューリタニズムの神政政治が、圧倒的な影響力を持ったことは疑いなき事実であるという。 アメリカ精神には最初から二つの流れがあったとされる。 一つは、ピューリタンたちの信仰心に由来するもので、18世紀の神学者ジョナサン・エドワーズの哲学から、超絶主義の思想家エマソンを経て、アメリカ作家の気難しい洗練と孤高の態度を生み、その極まるところ現代アメリカ文化の大部分に見られる非現実性となっている。 他の一つは現金な機会主義の流れで、これはピューリタンたちの生活の実際主義的側面に由来するものであり、ベンジャミン・フランクリンにおいて一つの哲学となり、今日のアメリカのビジネスの風潮を生み出したものである。 エドワーズ対フランクリンというのが、ブルックスが立てたアメリカ精神の基本的な対立図式であり、その源はピューリタニズムの二面性にあるということになるわけである。 さて荒野が開拓され、フロンティアが西へ移った後のピューリタニズムは、狭い意味での宗教的運動としてではなく、アメリカ人の理想主義、ナショナリズム、使命感の伝統の源泉として、人々に思い起こされてきた。 たとえば、1620年にプリマスに上陸したいわゆる<ピルグリム・ファーザーズ>たちが、上陸に当たって共同社会を打ち立てることを誓約した"メイフラワー契約"は、植民地時代を通じて、それほど広く知られていたわけではなかったが、1820年にジョン・クウィンシー・アダムス(当時 国務長官、後の第6代大統領、雄弁家でアミステッド裁判での奴隷廃止論者としても知られる)は、プリマスで行った演説において、哲学者たちが社会契約説として述べていることが、歴史上実際に行われた、恐らく唯一の例が "メイフラワー契約" (ピルグリム・ファーザーズたちが行った誓約が、契約-コントラクト-という言葉で呼ばれるようになったのは、ルソーやロックの説が現れてからであった)であると述べ、、またナショナリズムの立場からアメリカ史概論を書いたジョージ・バンクロフトは、1837年に、 「メイフラワー号の船室において、人類は自らの諸権利を取り戻し、『平等な諸法律』という基礎に立って、<一般の福祉>を目指し、政府を打ち立てた」と述べた。 ニューイングランドの発展の中心になったのは、ジョン・ウィンスロップを指導者と仰ぐ、1630年以後に渡米した人々であったが、初期ピューリタンの共同体の観念と使命感とは、宗教的意味合いが薄れたのちもアメリカの理想主義を支えてきた。20世紀の諸大統領が社会立法を推進した精神は、遠くウインスロップの共同体の観念にまで遡りえるのであるし、新大陸において多様な人々から成る社会に統一を与えるために、ウィンスロップがキリスト教の愛に頼ったごとく、多様性がますます大きい今日のアメリカ社会においても、一つの理想を追求するところにアメリカの統一の根拠が見い出されるという議論がなされているのである。 アメリカは世界において果たすべき使命を課せられ、そのために神によって選ばれた民となっているという使命感は、第2次大戦が起こって、アメリカの力が世界の運命を直接左右し得ることが明らかになると、たんなる理想主義やナショナリズムに止まらなくなり、アメリカ人は使命意識の現実的帰結まで考え合わせねばならぬことになった。 新正統主義の神学者ラインホルド・ニーバーは、1943年に発表した文章において、イギリスとアメリカの同盟が戦後世界の安定を保つ中心勢力になると予測し、アングロサクソン的発想が、「我々は道徳的に優れているがゆえに世界において卓越した地位を占めるのだ」というような、偽善的性格を持った運命観であることを反省して、謙譲と責任という宗教的な気持ちが備わっていなくては、アングロサクソン世界はロシアと中国という二つの非キリスト教国と折り合いをつけることはできないと論じた。ニーバーは、米英両国が自己の歴史的使命を果たすためには、キリスト教会がその使命を理解しなければならないのであって、世界の<パワー・ポリティックス>から禁欲的に退くかと思うと、一転して自国の目的を単純に神の意志と同一化してしまうことをせず、無責任や自己満足に陥らぬよう戒めなければならないと警告したのである。 アメリカ人が独善の過ちを犯さぬよう訴えたニーバーの言葉は、その後のアメリカのたどった道に照らして興味深いが、ニーバーによって批判されているアメリカ人の道徳主義的傾向も、それを批判するニーバーの宗教的自己反省も、広い意味で共にピューリタニズムの遺産と見なし得るのであれば、アメリカ的特質を形成するにあたってピューリタニズムの役割は大きかったということになろう。 しかし、注意すべきことは、ニーバーがアメリカ合衆国をイギリスと合わせて<アングロサクソン世界>と呼んでいることである。 フロンティアがアメリカの地図上から消滅したといわれた1890年以後、アメリカには、いわゆる「新移民」がますます数多く到来し、<ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント>中心のアメリカに対する挑戦が様々な形でなされるに至った。 20世紀のアメリカ史は、一面において、ピューリタニズムとフロンティア精神に対する批判の歴史であるともいえるのである。 <「アメリカ史像の探究」、本間長世著、1991年、東大出版会より抜粋> |