相模原グリーンロータリークラブ
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相模原グリーンロータリークラブ
第531回例会週報

530回 | 532回 | 2003-04週報目次
◆私の歩んだ芸術の道
上條 陽子 氏

<上條陽子氏プロフィール>
19**年 神奈川県横浜市生れ。(女流画家協会会員)
1978年 第21回安井賞受賞。[受賞作「玄黄(兆)]
女流画家協会展ユリ賞。
独立美術協会展海老原賞受賞。
個展。(資生堂ギャラリー)


← レバノンで絵画指導する上條先生
1979年 個展。(西武百貨店池袋本店美術画廊)
1989年 個展。(渋谷パルコ)
1992年 上條陽子の世界展。(池田20世紀美術館)
1993年 個展。(空想ガレリア)
1994年 個展。(空想ガレリア) 群青に舞う展。(石川県立美術館)
1995年 個展。(空想ガレリア) 個展。(ジャパンカルチャーセンター、オーストラリア・シドニー)
1996年 個展。(空想ガレリア) 個展。(イセファンデーション・ニューヨーク)
1997年 個展。(空想ガレリア)
1998年 個展。(空想ガレリア)

作品収蔵:相模原市 ・箱根彫刻の森美術館・池田20世紀美術館・高岡市立美術館
青梅市立美術館・石川県立美術館


「私の歩んだ芸術の道」

 私が絵描きになりたいと思ったのは17才の頃です。
私は高校はカトリックの学校に通い、そこでは修道院があり、「ごめんあそばせ。」の言葉遣いで、公立の中学校とは環境があまりに違うので、学校ショックを受けました。
 当時クラスは3つあり「ベツレヘム」「ナザレ」「パレスチナ」という名称で私はパレスチナというクラスでした。今思えば何か縁があったと感じています。
学校でキリスト教の勉強もいたしましたが、今では私自身は仏教になっています。私は10代の頃から心の底の方から表現したいという気持ちが強くわき起こってきて、進むべき道は、詩、小説、絵のいずれかと思っていました。

 実家は青銅で13代続いて美術品を作っており、海外が主な販路で祖父、父は横浜で輸出業をしていました。祖父は、当時錦絵を集めていました。ですから小さい頃から美術品は見て育ちました。家業は、戦後銅器は衰退し、13代でつぶれました。先に申し上げた様に17才の頃から絵の道を歩み始めました。父は絵は学校で学ぶモノではないと言い、それを真に受けて独学で始めました。

 今私は多摩美術大学に絵の教授に行っていますが、大学はいろいろ教えてくれるところで、今思えば学校に行っていたら楽だったなあ、と思います。当時、母は絵描きになることに反対し、私はアルバイトをしながら絵の具を買って細々と続けました。玉川学園の鈴木満先生の教室に通い、奥様の青木純子先生のすすめで女流展に出品しました。その時の作品は最後の部屋に飾られました。5年後に海岸に行ったときの馬飛びの絵を1年かかって3点制作し、それは受賞、新聞に取り上げられて会員になりました。割合そこまではとんとんと行ったと思います。

 ピカソ、マティスはそれぞれ絵に顔があります。ひとめでピカソ、マティスとわかります。絵にはオリジナルが存在しなければならないのです。それは苦悩の始まりであり、絵描きの一生の追求すべきことです。絵は自己救済であり、自己慰安でもありますが、同時に絵描きの道は非常に厳しい道です。何をどのように描くか、画風をつくっていくことは苦労の道です。

 絵をやっているうちに30代の半ばにさしかかり、このままでは私はダメになる、と追いつめられました。当時すでに結婚していて夫も絵描き、そこで一切仕事も辞めてヨーロッパ旅行に行きました。(1972?3年頃)
まずパリに行って車で一周した方がいいと、15万くらいの車を買い、飲むナビゲーター(私の夫!!)といっしょに、六ヶ月間、約2万キロくらいの旅をしました。テント生活で貧しい旅でしたが、若さは怖い者知らずでした。貧乏でしたが、スケッチをしたり、美術館を巡って多くの作品を見たことが、大きな栄養になりました。

 「何を描いたらいいのか?」「何故私は絵を描くのに苦しむのか。」と悩んでおりましたが、「描きたいものを描けばいいのではないか」と帰国後吹っ切れて、描いた絵が「玄黄」をテーマにした作品です。「玄黄」とは天は黒く地は黄色。その天地の間に人間の営みは限りがない、人は何処から来て何処へ行くのか、ということを表現しました。その作品が女性で初の安井賞を受賞しました。女性が初めて受賞したので、大騒ぎとなり、私自身は実力も十分にないのに受賞したことでむしろ苦しみとなりました。41才でした。

 やがて転機が訪れます。50才の時重い病気になったのです。最初は耳がガーンとする、おかしいなというのが始まりでした。イヤホーンで右耳が聞こえない、耳がおかしいのです。すこしづつ前兆が起こりました。北里病院へいったら難聴と診断されました。誤診です。その後倒れて病院にいったら、耳の中に腫瘍ができているという診断で、その日から即入院となりました。手術は、一回では取りきれないので、二回行いました。手がふるえる後遺症が出るかもしれないと先生にいわれました。私は、手と目は傷つけない様先生と神様にお願いしました。

 手術後のこと、先生が手を握ってごらんといわれ、やってみたら握れます。だいじょうぶ、助かった、私はまた絵を描ける、「絵を描け」と神様から言われていると思いました。死の淵を覗き生きている喜びを感じ、限りある命は大切という思いが強くなりました。
 そこから画風が少しずつ変わりました。病気後はアトリエに入れない、油絵のにおいを受け付けないのです。しばらく木版画を制作しました。
 手術後私の顔の右半分が1cm下がったのです。びっくりです。ああ、生きるってことは、細胞が動いているんだ、死はそれがストップすることなんだ、と病気によっていろいろなことを教わりました。

 若い頃の絵は、例えばボードレールの詩からインスピレーションを受けたことを頭で描いていたんですが、これからは生きている喜びを描こう、頭で考えたって無駄だ、素直に感じたままに手を動かそう。という様に病気を節目に変わりました。画材もキャンバスから紙へ変わりました。紙は切ったり貼ったりできるし、持ち運びも便利です。だんだん健康になって海外に行くことも多くなりました。

 今一番関心があることがパレスチナ問題です。
最初のパレスチナ行きは実は主人に話が来たものですが、私は好奇心が旺盛、行動派で私もグループ展に参加し出かけました。(主人は行きませんでした。)
1999年、エルサレム、ガザ、ラマラを訪れました。
 イスラエルは四国くらいの広さなのに何故か3会場で展覧会をするのか不思議でしたが、行ってみてわかりました。道路は検問所があって許可証を見せなければ通れません。ガザの難民キャンプは狭い所に10万人の人々が暮らしています。ガザには美しい海があり砂地ですし遺跡もあります。、なつめやしのにおいもします。当時はまだガザ地区もいくぶん平和でしたが、近況は最近の報道の通りです。ここ3年はレバノンのパレスチナ難民キャンプで絵画指導を行っており、私の作品もパレスチナをテーマにしています。

 では時間となりましたので、最後にスライドで私の作品を見ていただいて終わりにいたします。あまりうまく話せませんでしたが、お付き合いくださってありがとうございました。


 個展会場
◆神奈川県ロータリークラブ
親睦チャリティ野球大会に参加して
佐藤 眞一 会員

1.11月13日(木)富士通厚木総合グランドにて大会が開催され、県下10チームのうち参加チームは、厚木中RC、厚木中央RC、茅ヶ崎湘南RC、海老名欅RC、と私達、相模原グリーンRCであり、当クラブの佐藤眞吾キャプテンの選手
宣誓で試合が始まりました。

← 賞状と賞品を披露する守屋会員と西迫会員


 グリーンは第一試合は、海老名欅RCと対戦し、佐藤眞吾投手の好投と打線が爆発し、13対4で完勝。第2試合の厚木県央RCとの対戦は、前半エラーがらみで試合の流れが相手の流れになってしまい、後半追い上げましたが、11対4で惜しくも負けてしまいました。全試合が終わってみると結局、厚木県央が優勝し、グリーンが準優勝でした。

2.試合を振り返ってみますと、佐藤眞吾投手の本格派ストレートとシャープな打撃、西迫捕手のガッツあるファイト、澁谷監督兼三塁手のプロ並みのフィールディング、強肩の篠崎遊撃手、加藤二塁手の軽快なフットワーク、角田選手のカモシカの様な俊足、守備範囲が広く強打の高橋中堅手、ライト前のライナーを一塁でアウトにしてしまう強肩の原右翼手、このほか、今井会長、守屋幹事は代打で大活躍。
他、今回仕事の関係で参加できなかった亀井、井上栄次、柏木、恩田、中村、関永、各選手、次回の活躍を期待しています。

3.今回の試合を通して、4チーム全体が団結し一丸となって相手チームと戦い、
仲間のプレーを、自分のプレーの様に心から応援し、そして喜び合うという野球
のすばらしさと体験し、会員同士一層の親しみを感じることができました。
4.最後に短い準備期間にもかかわらず、チームをここまで導いてくれました澁谷
監督、佐藤眞吾主将、高橋幹事長、本当にありがとうございました。

 表彰状