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相模原グリーンロータリークラブ
各種奉仕事業紹介

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橋本家庭集会の地域奉仕
2003年12月23日

 
    

 秋になり10月10日(金)、同24日(金)、11月21日(金)そして12月22日(月)と連続して橋本家庭集会を開いてまいりました。この間のテーマは2003/04年度の橋本地区における「地域奉仕」を煮つめることでありました。
 浮田会員が熱心に提唱した「小学生に良い音楽を聞かせたい!」、「新世代への情操教育の必要性!」を如何に具体化させるか?が課題でありました。地区財団学友委員会、地区事務局のご意見もいただきました。相模原市、同教育委員会の後援もいただくことになりました。その上で12月22日の会合(浮田、小川、山本、内田、原、今井会長、守屋幹事)で大体の骨組みが決まりましたので、以下に御報告いたします。

企画名:「風っ子音楽会」
目的:地域の子ども達が「情緒に気づき、それを高める」一助としたい。
対象:市内の小学生、約500名を招待したい(保護者同伴あり)、整理券!
  市の広報にかける。近隣小学校低学年が中心か?
  (旭、宮上、相原、当麻田、小山、二本松、大沢等)
  ちなみに全市では55校、1,103学級、児童総数は35,456人
  (低学年の内訳は1学年が6,021人、2学年が6,233人、3学年が5,951人)
日時:2004年5月5日(祝日?子供の日)
場所:「杜のホールはしもと」相模原市橋本3-28-1ミウィ橋本7Fホール 042-775-3811
    定員535人(1階席405席、2階席130席)
    舞台寸法 間口(可動プロセニアム)14〜17m 奥行き14m 高さ7.5〜10m
    音響反射板、舞台・照明・音響施設完備、楽屋3室、控え室
演奏者:財団学友(元ロータリーの財団奨学金受領者)

●沼田宏行さんとそのお仲間
 沼田さんは日本初の男性ピアニスト。東京芸大音楽学部付属音楽高等学校ピアノ科さらに東京芸大学部&同修士課程を首席で終了、東京芸大芸術学科博士課程卒。クロイツァー賞受賞。安川加壽子、高良芳枝、ピエール・バルビゼ、ジャック・ルビエの各氏に師事する。
 国際ロータリー財団奨学生として渡仏し、マルセイユ音楽院を審査員賞賛付き金賞受賞にて卒業する。
 1990年度国際ドビッシー・ピアノ・コンクール優勝。リヨン、ニース、パリを始め各地でリサイタルを行う。外務省の国際交流基金の派遣音楽家として、グァテマラ、ホンジュラス、ニカラグア、米ニューオリンズでリサイタルを行う。
 またNHKでの演奏も回を重ね、また日本フィルハーモニー・オーケストラ、東京芸大オーケストラ等におけるピアノ協奏曲、室内楽等のあらゆるピアノ演奏の分野で活躍中である。現在は東京芸大音楽学部・付属音楽高等学校にて後進の指導にも注力されている。
※ 加えて市内の音楽団体である「相模原少年少女合唱団」、「相模原市少年鼓笛バンド」、「BS・GSバンド」等の参加も模索中!

実行委員会:相模原グリーンロータリークラブ橋本地区会員で構成する。
 実行委員長      浮田 實(みのる)
 副実行委員長     小川忠久(ただひさ)
 会計           内田茂一(しげかず)、<福本俊雄>
 プログラム       小川忠久、<宮崎泰光、西迫 真>
 渉外・プロモーション 角田信彰、<権田源太郎、山本正司>
 会場           山本正司(ただし)、<篠崎雅彦>
 後援先との連係    守屋 護 幹事、<尾畑仁貴>
 記録           霧生房夫、<佐藤眞吾>
 写真           原 幹朗

 情緒について
 この企画を煮つめる作業では、「情緒とは?」「情操を高めるとは?」について各人が自分の意見を持ち、その上で摺り合わせる作業が必要不可欠であると信じます。そこでこの点について深い関心をお持ちであった数学者の故岡 潔 氏のご意見を以下に紹介いたします。
 
『岡 潔 氏の“情緒”についてのご意見』
  たとえば、すみれの花を見るとき、あれはすみれの花だと見るのは理性的、知的な見方です。むらさき色だと見るのは、理性の世界での感覚的な見方です。そして、それはじっさいにあると見るのは実在感として見る見方です。
 これらに対して、すみれの花はいいなあと見るのが情緒です。情緒と見たばあいすみれの花はいいなあと思います。芭蕉もほめています。漱石もほめています。ところが、なぜ、いいなあと感じるのかだれにもわかりません。ですからすみれの花を情緒と見たばあいこの情緒は一つの先験観念です。わたしたちの価値判断は、ほんとうはこの情緒から来ているとわたしは思うのです。
 情緒の中心が人の発育を支配するのではないか、とりわけ情緒を養う教育は何より大事に考えねばならないのではないか、と思われる。単に情操教育が大切だとかいったことではなく、きょうの情緒があすの頭を作るという意味で大切になる。そもそも学問はアビリティーとか小手先でできるものではないのである。情緒の中心の調和がそこなわれると人の心は腐敗する。社会も文化もあっという間にとめどもなく悪くなってしまうのである。
 情緒の濁りはいけない。情緒は喜怒哀楽によって濁ります。とくに、人を恨むというようなことをするとひどく濁ります。それで大自然の理法(真智)は大自然にまかせてしまいます。そこは人にはやれないし、また、大自然がやってくれるのでまかせておいていいのです。
 それでは、人はなにをすればいいか。その情緒を、できるだけ清くし、美しくし、深くすることです。
 なかでも深みをつけていく。これが大事です。真善美とやり方は分かれていますが、どの道にせよ、ひっきょうそういうふうにつとめるべきなのです。これが人類の向上だと思うのです。
 人は動物だが、単なる動物ではなく、渋柿の台木に甘柿の芽をついだようなもの、つまり動物性の台木に人間性の芽を継ぎ木したものといえる。それを、芽なら何でもよい、早く育ちさえすればよいと思って育てているのが今の教育ではあるまいか?ただ育てるだけなら渋柿の芽になってしまって甘柿の芽の発育はおさえられてしまう。渋柿の芽は甘柿の芽よりずっと早く生育するから、成熟が早くなるということに対してもっと警戒せねばいけない。すべて成熟は早すぎるよりも遅すぎる方がよい。これが教育というものの根本原則だと思う。そもそも人の人たるゆえんはどこにあるのか。私は一つにこれは人間の思いやりの感情にあると思う。
 そこで現状を眺めてみよう!
 いま、たくましさはわかっても、人の心のかなしみがわかる青年がどれだけあるだろうか。人の心を知らなければ、物事をやる場合、緻密さがなく粗雑になる。粗雑というのは対象をちっとも見ないで観念的にものをいっているだけということ、つまり対象への細かい心くばりがないということだから、緻密さが欠けるのはいっさいのものが欠けることにほかならない。
  理想はおそろしくひきつける力を持っており、見たことがないのに知っているような気持ちになる。それは、見たことのない母を探し求めている子が、他の人を見てもこれは違うとすぐ気がつくのに似ている。だから基調になっているのは「なつかしい」という情操だといえよう。これは違うとすぐ
 気がつくのは理想の目によって見るからよく見えるのである。そして理想の高さが気品の高さになるのである。
 よい情操をつちかうことの大切さは、いくら強調しても強調し過ぎるということはないだろう。たとえば小学校三、四年生のころは、心のふるさとをなつかしむといった情操を養うのに最も適した時期ではあるまいか。
 「心のふるさとがなつかしい」という情操の中でなければ、決して生き生きとした理想を描くことはできないのである。
 《「日本の心」岡潔著から抜粋、岡さんは20世紀の日本が生んだ大数学者、
 京大卒、専門は多変数解析函数論、日本学士院賞、文化勲章、勲一等瑞宝章。》

平成15年12月 原幹朗