相模原グリーンロータリークラブ
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第641回例会週報

640回 | 642回 | 2005-06週報目次
「まちづくりについて」

にこにこ星淵野辺商店街理事長

藤原 長俊 氏

 私が初めて「まちづくり」に関わったのは、昭和58年に策定された相模原市の商業振興ビジョンからでした。それは商業地の中心を、 橋本 ・ 相模原 ・ 相模大野 の3エリアとさだめ、別に地区の中心として、 淵野辺 ・ 上溝 ・ 東林間 ・ 相模大野 の4エリアとして、行政はそこに積極的に先行投資をしてゆきました。その計画の地区単位である淵野辺の開発計画に携わるようになりました。
 昭和60年にビジョン委員会が設置され、商店会・自治会・行政の3者により運営されることになり、商店会の代表としてその役に当たることになりました。その後の3年間が計画作りに費やされ、63年に具体案を提出して、行政・コンサル・商店街の代表により実施段階に移りました。素人の悲しさで行政とコンサルのペースになりがちで、大変苦労をした思い出があります。その様な状況の下で実践の手順を、ソフトとハードとにわけて取り組み、先ずソフト面の人作りが重要と考えて、イベントとして「淵野辺銀河祭り」を計画しました。若い人も巻き込んで一緒に行動しながら、協力者を育てると言うことです。それはとても大きな成果を見ました。「銀河祭り」は平成元年に第一回を開催して、その後一度も途絶えることなく、昨年十七回を数えております。終身世話役を以て任じていますが、昨今では私がいなくても学生を含めた若者たちで、立派に運営ができるようになりました。
 ハード面でのまち作りに着手したのは、駅前商店街のアーケード造りでした。当初は順調に進むかと思われましたが、各論の段階になると様々な障害に突き当たり、一時は絶望的な局面もありました。粘り強く各関係者と話し合いを繰り返したことによって、一人二人と理解者が増えて、利害の調整もスムーズに行くようになりました。熱意・誠意・粘りと、決して諦めなければ、自ずと道は開けるものと強く実感をしました。3年後に取り組んだ八千代の前のアーケード造りも同様です。
 11年ほど前のことになりますが、駅前広場を含む、国鉄清算事業団敷地開発計画の案件のことです、前提は民間の開発に委ねると言うことでした。然し、行政の計画ではマンション開発の計画が進んでいました。地元の商店街としては、駅前に大規模なマンションが建設されるのは、街の長期的な視点での発展には良くないという立場で、対案を用意して話し合いに臨みましたが、実際には5業者に入札を募り、その内の1社に落札するところまで進んでしまいました。行政サイドのスピードに対応できずに、一時は止むを得ずと言う雰囲気になっていました。然し、私は「淵野辺のまち」の将来の為には、絶対に譲歩するべきではないと覚悟を固め、再度親しい人々に働きかけました。幸い良い協力者と有力な?理解者を得て、再び行政と落札した建設業者と話し合いを持ち、土地を他の用途に活用すべく買い戻すことができました。
 「淵野辺」は学園都市としての一面も持っています。桜美林大学の8,000名・麻布大学の3,800名・青山学院大学の10,000名とあわせて21,000名を越える学生を擁する大学が近隣にあります。その学生の通学バスの用地として活用するとともに、駅のデッキを二層構造にすると言うプランも採用されました。
 アーケード造りの体験で得た、諦めずに話し合い、人間関係を大切にして事に当たれば、自ずと道は開けると言う確信は得られました。然し、その間に家族をはじめとして、行政に携わる方々、また多数の方々に心ならずも多くの迷惑をおかけしたと言う反省もあります。お許しください。
 まだまだ、取り組まなければならないテーマは山積していますが、基本的なインフラは整いつつあります。津久井郡の町との合併を機会に、新しい相模原市としての「まちづくり」に行政当局も取り組みを始めています。
 矢部との立体交差の交通問題の解決も大切です。また幸い近くに鹿沼公園もあります。これを活用して吉祥寺の井の頭公園のように、市民や学生たちに「憩いと、夢を描けるまち」・「愛される淵野辺のまち」作りの実現を願っております。