ロータリー創設から確立までの背景!

<如何に捉えるか?>

<巻末資料>

1.個人主義とコミュニティ精神
2.愛国心の結集
3.シカゴの政治状況ー民主党マシーンの形成を振り返る!
4.ポールハリスの言葉
5.ロータリーの危機、そしてロータリー(シカゴRC)と政治
6.市民運動の発展(アイザック・ウォルトン・リーグ)
7.ロータリーと政治、さらなる高みを目指して!
8.ポールハリスの言葉



※ 個人主義とコミュニティー精神
 「個人」あるいは「個人主義」という言葉は、アメリカ生活の様々な日常的文脈のなかに登場するが、とくに政治演説などにおいて頻繁に使われる。
 有名な例として、1928年、ハーバート・フーヴァー 
<アイオワ州出身、幼い時に両親を失い、孤児となる。刻苦勉励しスタンフォード大学卒業、鉱山技師として成功する。第一次大戦中は「ベルギー救済委員会」の委員長、後に「アメリカ救済局総局長」として対欧州の人道的救援活動の推進者として知られた。ハーディング&クーリッジ政権の商務長官。22年に著書「アメリカの個人主義」を発表する。彼は企業が業界団体を組織して協調体 制を創り、合理化を推進するとともに、不正を排する倫理規定を設けるよう に説得した。彼は個人と企業の自主性に揺るぎない信頼を抱いていた。1928年に大差で第31代大統領に! 共和党系。アメリカ成功物語のヒーロー。> 
は大統領選挙演説のなかで、「恩情主義や国家社会主義からなるヨーロッパ流哲学」の対立概念として「頑健な個人主義」を提示した。
 人間は自らの運命を支配し、全ての個人は自力による成功の可能性を持つというこの思想は、アメリカ人の生き方の理想を表わすものとされてきた。
 この国の人々が神聖視する「個人」とは、まず第一に完全に自立した人間でなければならない。
 アメリカの子どもが一人前と見なされるのは、一般に、転免許をとって行動の自由を獲得したときか、大学入学や就職によって親元を離れるときである。
 それ以後、アメリカ人は人生のほとんどすべての重要な決定を自らの手で行い、年老いても自分の生き方に責任を持つことを当然と受けとめる。
 彼らの多くが、個人的な悩みを友人や同僚に気軽に打ち明けるかわりに高額な代金を支払って精神科医のもとへ通い、退職後は三世代同居などということは考えもせずに、さっさと老人ホームに引越すのは、それがアメリカ文化にかなったやり方だからである。
 老人が、この国では「お年寄り」という敬いと憐憫をこめた呼び方ではなく、「シニア・シティズン」と呼ばれるのも、市民としての権利と義務が年齢に関係なく存在するからだろう。
 さて、「独立独歩」という生き方の対極に、「調和と統一のとれた共同体」という、アメリカ人が掲げるもう一つの理想がある。
 植民地時代以来のアメリカの歴史は、まさにこの個人に対する全体、私に対する公のバランスをいかにとるかを一大テーマとしてきた。
 しかしながら、アメリカ人の意識のなかで、個人と共同体は必ずしも矛盾するものとは考えられていない。
 すなわち、個人の価値を最大限に評価し、政府の介入を最小限に抑えようとする個人主義の伝統は、市民と国家の中間的組織として、さまざまな自発的コミュニティーを生みだしてきたのである。
 個人の自由参加による共同体は、開拓時代には、宗教によって互いに結ばれた村落や、新しいユートピアを求めて移動する人々の間に無数につくられた。
 身近に頼るべき行政機関や警察を持たなかった開拓者たちにとって、相互扶助は生存の条件だった。
 小規模の親密な地域社会はまた、健全で独立した市民生活を保証するものであると考えられてきた。
 その後、州や連邦政府の諸制度が整備されるにつれ、治安・教育などは市民の手から次第に公的機関に移っていったが、連帯意識の共同体としてのコミュニティーは、さまざまな形態をとりつつ、今日のアメリカ社会に受継がれている。
 地震や洪水などの災害時に、アメリカ人がまたたく間に援助の組織をつくるのも、また国家レベルの重大問題が生じた時に、賛否両論それぞれの論陣がすぐさま組織化され、行動が起こされるのも、目的を共有するコミュニティーという長い歴史的伝統があるからだろう。
 市民奉仕、親睦、ビジネス、趣味、政治、宗教など、参加の動機はそれぞれ違っても、アメリカ人は仲間集団を通じて成長し、自己主張を行う。
 自由意思による参加の原則はまた、自由意思による脱会も意味するから、個人は常に自分にふさわしいコミュニティーを選択できる。
 自立し孤立した個人が同類を求めて結合・分裂を繰り返す行動のエネルギーは、そのまま、「多様」と「統一」というアメリカのニ大理念を支えるエネルギーでもある。
    < 「世界の歴史と文化-アメリカ」、亀井俊介監修、新潮社から抜粋>



※ 愛国心の結集 - 国家とロータリーとの関わり!
 皇帝ウィルヘルムKaiser Wilhelmが、地球を支配しようと決め、その証明を試みることを決断した時、シカゴ・ロータリークラブの結束力は円熟期に達していた。このことは、簡単に言えばクラブと皇帝とが意見が異なっていることを意味していた。
 アメリカ合衆国はドイツとの戦争を1917年4月6日に布告した。
 クラブの次の例会では、他の話題はすべて省略されて、ロータリアンは、彼らの忠誠心を"命を賭けてunto death itself"誓約した。
 興奮が治まった時点で、クラブの最初の戦争奉仕委員会War Services Committeeが任命され、アレン・アルバート博士Dr. Allen D. Albertが委員長になった。
 彼は新しい国際ロータリークラブ連合会会長の任期からたった今引退したところであり、彼の弁舌の能力は内外に広く知れわたっていた。
 彼は、委員会を編成して短い期間奉仕したが、個人的な理由から委員長の座はC. W. スミスC. W. Smithに回された。
 その独創的な委員会の他の委員は、新しいクラブ会長チャールズ・ベッカーCharles J. Becker、直前会長ハリー・ウイルキーHarry A. Wilkie、ポール・ハリス、チェスレー・ペリーであった。このようにして、クラブの最初の指導者たちが決定した。
 この委員会はすぐに不充分であることがわかったので、これらの人たちは、クラブと合衆国陸軍への奉仕を含む広い活動の権限を有する、多くの小委員会を擁する、より大きな委員会の中核になった。
 彼らは、すべての国民と同じように、恐怖ではなくて、憤りや熱意から生まれた一種の興奮状態に陥っていた。すべての大陸のまともな国民は、文明civilization自身が円熟すると思っていた。特に、我々アメリカ人は、スペイン系アメリカ人のエピソードのように、現実の戦争は火星との最終戦争で滅亡するときであると考えていた。
 1860年代の市民紛争が、意見の相違を解決する方法として、撃ち合いをすることを、恐怖であり誤った考えであることを証明していた。
 ビクトリア朝Victorianの時代は、我々の理想を高く掲げ、時には、厳し過ぎることさえあった。科学や工業や商業の急激な高まり、永続的な繁栄と人々に対する善意、すべてのものは今世紀初めの16年間の幸福な時代に作られた。しかし、我々の背後のヨーロッパでは、陰険な悪巧みが首をもたげていたのである。
 クラブ会員の身分を離れることのできた者は、軍服をまとって、激しい戦闘に向かって歩を進め、残った者は、唇を噛みしめながら、大義名文を支える仕事に取り組んだ。これこそ、昔から立証済みの本物の愛国心であった。
 「必要なら、死もいとわず」
 ロータリアンは、彼らの誓約を繰り返し、実際に、何人かの者はその究極の犠牲を払った。クラブに残った他の者たちは、彼らの特別の才能を、ワシントンに自発的に申し出て、能力に見合った奉仕をした。
 銃後では、シカゴは常に重要な地位を占めていた。最初のクラブの成果として、合衆国青少年活動予備軍U. S. Boys' Working Reserveの創立があった。
 突然、国は食料不足に直面し、状況は更に悪くなる恐れがあった。
 シカゴ・ロータリークラブの会員、ハワード・グロスHoward H. Grossはよい考えを思いついた。
 ハワードは民間軍事教練連盟Universal Military Training Leagueの会長であり、ある日、彼は自分のクラブの同僚に言った。
  「私は、都会の少年たちが、大人たちと同じくらい、皇帝を懲らしめたい
 と願っていることを知っています。しかも彼らは、木製の銃で練習したり、
 戦争ごっこをすることではなくて、何かをすることを望んでおり、具体的で
 有益な何らかの活動をしたいのです。多くの者は体力こそ劣っているものの、
 鍬をしっかり動かすことは出来ますし、農夫は極めて人手不足です。二つの
 グループを一緒に合流させるという考えはどうでしょうか?」
 彼は、少しの間考えて、自分自身の質問に答えた。
 「もちろん、それは可能です。」
 24時間以内に、ロータリアンの同僚の応援をうけて、彼は、シカゴ教育委員会Chicago Board of Educationに、イリノイ州の農場で働くことに対する高校生の免除許可の権限を迅速に与えるという、彼のアイディアを売りこんだ。
 ハワード・クロスは、直ちに2,000ドルの費用をロータリアンの友人から捻出すると共に、他の二人のシカゴ・ロータリークラブの会員、ハリー・ウイルキーとチャールズ・ベッカーによって考え出された詳細を検討した。
 それから、ハワードは彼の事務所に行って、彼らと同じ考えを受け入れることを奨める電報を40の都市に送った。彼らの内のほとんど半分は、直ちにその計画を自分たちの地域の活動に取り入れるために行動を起こし、他の都市も数日の内にこれに加わった。
 1カ月以内には、青少年農場計画the youth farm planは全国的なものになった。
 シカゴ・ロータリークラブは全力をあげて、このイリノイ州の運動を進めることに没頭した。
 後に、連邦職員の高官は述べている。
 「イリノイ州の組織は、他の東部6州の連合よりも、食料の生産に関して
 より実用的な仕事を遂行したし、州の予算をまったく使わずにこの活動を
 実行した。」
 もちろん嬉しいことであったが、クラブは、リーダーシップとみごとな成果をおさめた潜在能力とその力に驚かされた。これは、遥かシアトルにまで広がりを見せた典型的な例である。
 シアトル市長はシカゴの成功を知り、地元のロータリークラブに、シカゴが実施した例にならうように頼んだ。
 指導は国の隅々まで浸透した。
 高校生が開拓に努力している間、シカゴ・ロータリークラブの他の会員たちは、皇帝が目覚めるのを助けるための、より魅力的な方法を見つけた。それは1917年の夏のことであった。
 ポスター広告会社poster advertising firmの社長をしているブリッグスA. M. Briggsという名前のクラブ会員が、特別に選んだ数人のロータリアンの仲間と内密里に会合を開いて、彼らに言った。
  「私は、あなた方の前に提案する重要な計画を持っていますが、最初に
 言っておきたいことは、絶対に秘密にするという約束を守ってもらいたい
 のです。」
 彼らはこれを了解し、1時間の間、お互いに話し合った。最後に、ブリッグスは、たまたま、国際ロータリー幹事をしている同じクラブのチェス・ペリーを通じて、国際ロータリーの理事会が始まる直前に行くつもりであることを伝えた。
 チェスは秘密にすることを誓わせた上で、委員会の計画について熱心に説得し、理事会が始まる前に、その決定を急がせて、賛成を得た。それから、ブリッグスはホワイトハウスに向かった。ウッドロー・ウィルソンWoodrow Wilson大統領は注意深く聞きいてから言った。
  「来ていただいたことを感謝します。どうぞ、これを進めるためにできる
 ことは、全部やってください。私は、あなたのロータリークラブから提示さ
 れた興味を惹く事実の真価を、深く認めます。」
 ブリッグスはシカゴに戻る列車を待っている合間に、ペリーにこの勇気づけられるニュースを打電した。ペリーは直ちにシカゴロータリーから12人の人を選び、即日、彼らを私的な会議に召集した。
 彼らは、サウス・クラーク通り538番地のウィリアム・キールWilliam E. Kierの事務所に集まった。
 ウィルソン大統領はまた積極的だったので、連邦政府federal governmentはこの会議に、司法省Department of Justiceのシカゴ責任者ヒルトン・クラボウHilton G. Clabaughを派遣した。
 チェス・ペリーは秘密の計画をこのグループに提案した。
 議論は簡潔であり、要領を得ており、明白であり、問題の動議に対する投票は、直ちに満場一致の承認を得た。
 当日の真夜中までに、すべてのアメリカの大都市にあるロータリークラブに、電報が送られ、36時間内には、200以上の極めて特別な組織が、行動を開始した。
 多くのシカゴ・ロータリークラブの会員は、いち早く開発された、戦時下における奉仕のための大きな忠誠と行動力の全国的な流れに、公的にまた私的に働いたのである。
 これらの人々は、極めて迅速にまた秘密裏に、アメリカ人保護連盟American Protect Leagueを組織するために行動したのである。
 その目的は何であったのだろうか? 12人の委員による最初の会議における、彼の説明の概略をチェス・ペリーに聞くことにしよう。
  「紳士諸君、アメリカはヨーロッパに於ける戦場だけではなく、今この場
 において、我々の母国の社会が危険にさらされている。我々は、常に、ドイ
 ツの無責任な破壊活動機関から嘘八百な話を聞かされている。更に悪いこと
 には、同じような機関は、色々な方法で、我々の軍需工場や工場や事業所に、
 サボタージュやストライキをしかけてくる。多数の人々が、誤って指導され
 危険にさらされており、そのすべては邪悪な計画の一部でもある。我々は可
 能な限り、これらの行動を暴露し、止めるために、逆襲を計画しなければな
 らない。」
 彼はもちろん正しかった。年輩のアメリカ人は、未だに、ドイツの宣伝者propagandistsたちのことをよく覚えている。まさしくその宣伝文句は、1914年の時点では我々の言語に比べて五十歩百歩のものであった。
 そこで突然、それに気づいて、人々は警戒し困惑した。突然、彼の声がかすかなドイツ訛を持っていることに気づいたみんなは、彼を怪しいと思う。
 我々の愛国的な神経が、それほど過敏になったのである。
 ある日の夕方、三人の誠実なシカゴ生まれのドイツ系市民が、酒場でビールのジョッキを傾けていた。彼らはちょうど、厳しかったその日の労働から開放されたところであり、"Ach, du lieber Augustin"と歌を歌っていたのをさえぎられた。
 直ちに、何人かの「愛国者」が彼らを攻撃した。一人は意識が無くなるほど殴られ、もう一人は肋骨を折られた。三番目の男が後に警察本部で、三人とも梱包工場で働いている、誠実なアメリカ人であることを説明した。彼らは咎められなかった
 が、彼らは社会的に卑しめられ、更に彼らの子どもたちもまた学校において、他の子どもたちから避けられた。
 ロータリーの新しいアメリカ人保護連盟は、我々国民自身がそのような悲劇的な間違いと戦うことを助けるために組織された一方で、真剣に破壊活動を究明した。
 多くの問題があったが、連盟は大きな成功をおさめた。
 しかし最初から、米財務省U. S. Treasury Departmentはそれに反対だった。
 秘書課のウィリアム・マッカドゥーWilliam C. McAdooは公式に述べた。
 「アメリカ人保護連盟のメンバーが、諜報部Secret Service Divisionのバッ
 ジをつける権限を与えられたという事実に憤慨しています。」
 法務長官トーマス・グレゴリーThomas W. Gregoryは連盟を支持した。
 戦争が終わり、連盟が解散された時に、やっとこの議論は終結した。
 その間ずっと、殆どはロータリークラブの指導者でもあった、アメリカ中の連盟のリーダーたちは、彼らの活動を静かに力強く進めた。今日にさえ影響を及ぼしている次に述べる評価は、彼らの活動が、非難を乗り越えて行われたものであることを示している。
 彼らは、政府自身が対処するには準備不足な、眼に見えない敵に直面した。
 そのスパイ映画のような活動は、皇帝を薪の山に追いやるほど、劇的なものであった。(彼は昨年中、独りぽっちで木を切っていた)
 しかし、彼らにとっては多分、魅力に乏しい奉仕活動であって、そんなに貴重な活動ではなかったに違いない。
 例えば、シカゴ・ロータリークラブの会員は、最初の自由国債Liberty Loan運動の期間に債権を160,0000ドル、2回目に243,2000ドル、3回目に3476,000ドル応募した。
 ハリファックス港Halifax harborで軍徴用船が爆発して、1,600人が死亡し、何百人にものぼる人が負傷した時には、クラブは素早く130,000ドルにものぼる援助をし、シカゴが災害援助の呼びかけに反応した最初の都市の一つとなった。
 合衆国海兵隊U. S. Marinesが、シカゴで6週にわたって募集運動を行った。
 シカゴ・ロータリークラブは、タイプライターや何人かの速記者を海兵隊事務所に提供して、この活動に協力した。
 クラブが準備し、資金提供したロータリーの奉仕活動の展示用説明資料は、1918年にカンザスシティで開かれたロータリー国際大会の展示するために、グラント・キャンプの兵士や、五大湖の船員に贈られた。
 多くの連隊が編成されてイリノイ州の予備役Reserve Militiaの規模が拡大した時には、輸送部隊は後から組織されたので、シカゴのロータリアンの自発的な申し入れによって、彼ら自身の乗用車とトラックを使って、連隊の要望に応えた。
 赤十字運動は、クラブが100パーセント登録を達成した。クラブ会員のあるグループは、営業マンのタバコ代から1,000ドル以上を浮かした。クラブ委員会は、ロータリアンによって提唱された戦時娯楽基金War Recreation Fundのための"ニコニコ本Smileage Book"運動として50,000ドルを達成した。
 そこで、7,000ドルは、トレーニング・キャンプに図書館を建設し維持する補助として活用された。
 この昂揚した戦時中にあっては、どこでも、人的資源が重要な問題となった。
 そこで、シカゴ・ロータリークラブは、1918年7月にセルフ・サービスの昼食を試みた。各々の会員は自分自身のお盆を運んで、それを楽しんだ。このようにして、給仕たちは、より必要性の高い仕事のために解放すること
 ができた。
 1918年には、シャーマン・ハウスが、昼食代を60セントから65セントに引き上げる必要があるこが分かったことは、今日注目すべき、ちょっと興味深い事実である。
 ある善良なロータリアンが嘆き悲しんだ。
  「インフレーションが、我々全体の経済システムを危険に陥れようとして
 いる!」
 この本が印刷される頃には、シャーマン・ハウスは、同じクラブにその昼食代として3.50ドルを請求するだろう。
 みんなはホテルに行くのであって、クラブに行く人は誰もいない。まさしく、善良なロータリアンがその年に、クラブで話したように、インフレーションが我々全体の経済システムを危険に陥れているのである。
 1918年10月、突如として意外な病気がアメリカを襲った。スペインの船員がそれをここに持ち込んだと伝えられたことから、人々はそれを、スペイン風邪Spanish influenzaとか単にインフルエンザfluと呼んだ。
 我々はそれに対処する準備を怠っており、その悪性の疾患に対する知識もなく、特徴も分からず、抗生物質や特効薬と言われる他の薬も無かった。
 兵士も民間人も共に病魔に冒され、人々は苦しみ、数千人の人が死んだ。
 要するに、たとえ我々が勝利を収めたとしても、戦争をはるかに越えた究極の緊急事態が起こったのである。
 家庭を直接襲う新しい戦争に、シカゴのロータリアンは再び全力をあげて、お互いが必要とすることを助け合い、あらゆる場所で市民の恐怖心を鎮めることを試み、その病気を抑制し広がりを止めるために働いた。
 クラブの毎週の例会は、突然中断されて、最重要な委員会の集会だけが許された。
 会員たちは、週報"ジレーターGyrator"の前身である"ウイークリー・エールWeekly Yell"を通じて、すべての予防措置を取り、家族の病気のあらゆる状況をクラブ役員に報告するように勧告された。
 幸運にも、この制限はほんの3週間続いただけで、その後、クラブは唱歌と決定した事業を進めることによって、例会を再開した。
 正確な日付は分からなかったが、休戦記念日Armistice Dayは目前に迫っていた。
 究極の成功のニュースは11月11日午前2時00分にシカゴを駆けめぐり、ロータリアンは、アメリカの他のみんなと共に、興奮の極みに達した。彼らは、永久に戦争を終えるための戦争に勝ったのである。
 3日後の夜、クラブは、これまでに開催した内で最大の会合を、コングレス・ホテルのフィレンツェ・ルームで開き、戦勝祝賀演芸晩餐会を楽しんだ。350人以上の会員と婦人が出席した。
 ウイル・ネフ博士Dr. Will Neffは、紙の帽子と呼び笛と吹流しを用意した。
 ハリー・ラグルスはテーブルの上に立って、両手を上げ、微笑みを浮かべながら、「みんなで歌おう!」と叫んだ。
 戦争は終わったが、クラブの戦争奉仕委員会の仕事が終わったわけではなかった。
 軍人の帰国と除隊には、助けが必要だった。戦勝大行進が企画されて、333野戦砲部隊のE及びF砲兵隊がフランスから帰ってきて、ミシガン大通りを行進した時には、シカゴ中の人が集まった。
 これは、愛すべき戦士である "黒鷹軍団Black hawk Troop"であった。
 正午には、彼らは解放されて、計画に従って、直ちに、シカゴ・ロータリークラブの昼食会のゲストとしてシャーマン・ハウスに行った。
 ちょうど430人の人が昼食をとっており、彼らをもてなす歌を一緒に歌った。
 その後で、例会の正式なゲストとして、ロータリアンによって極めて丁重に手配された、"Business Before Pleasure"の公演を見るために、ガーリック劇場Garrick Theaterまで行進した。
 このような催しが、何週間も続いた。我々は、間違ったことをしたわけではなかったが、彼らのために充分なことをしたわけでもなかった。
 クラブ委員会の唯一の重要な奉仕活動は、必要とする仕事を見つけて市民社会に再び適用するように手助けすることであった。
 いくつかの胸を痛めるような事態も起こった。
 少数とはいえロータリアンが戦死して、フランダースのひなげしの下で、永遠の眠りについた。彼らは、アンドリュー・ロウンズ大尉Capt. Andrew J. Lowndes、ダグラス・レイ中尉Lt. Douglas Wray、フィップルD. E. Whippleであった。
 奉仕分野別に分類すれば、17以上に上る部門で奉仕をした。
 シカゴの有名な外環状線を湖の正面に沿って北に進むと、旧デイリー・ニュース記念館のすぐ北側に、美しい木立ちが見える。軍服をまとった会員たちに敬意を表して、彼らの銅像は、1920年にシカゴ・ロータリークラブによって建立されたものである。
 悲しいことには、当然のことながら、それは、戦争を終える戦争ではなかった。そのようなことをして過ちを犯す人類は、神に許しを乞わなければならない。
 我々がヨーロッパに戻って、再びドイツ人と戦う必要がある時には、シカゴ・ロータリークラブは、その弱腰を守るために以前のように、自国や外国で奉仕をするだろう。
 偶然にも、クラブの定例例会日は1941年12月9日火曜日と重なっていた。
 2日前に、国民は電気ショックのようなものを感じとっていたが、不意に、信じられないことが、実際に起こったのである。従って、モリソン・ホテルにおける昼の例会は、ソング・リーダーのハリー・ラグルスが長時間、唱歌に熱中するといったようなのんびりとした雰囲気ではなかった。
 歌も、冷やかしも、どんな種類の世間話もまったくなく、みんなは暗い顔つきでお互いを迎えた。
 ジョン・ジョセフ・マンレーのような原型となるロータリアンは、何をなすべきか知っていたが、それが可能であるという確信はなかった。
 彼は、日本が警戒網を突破して、我々につかみかかってきたことを知っていたが、重要な問題は、仰向けに倒れた我々が、再び立ち上がることができるかどうかということであった。
 クラブ理事会は午前中を会議に費やした。
 今や彼らは突如として、居間に踏み込んできたのである。
 クラブに国防委員会Committee on National Defenseが作られ、理事会で協議された結果、理事たちがその委員になった。
 直ちに、新しい戦争活動委員会War Activities Committeeが再編成されて、その委員会はすでに行動を開始していた。
 最初の活動は、まさしくその朝、「極めて唐突に、また陰険に、我々の将来を暗いものにした戦争に対して、速やかに、かつ成功裏に遂行することを、シカゴ・ロータリークラブの総力をあげて団体的および個人的に支援する。」という声明を、フランクリン・ルーズベルトFranklin Roosevelt大統領に打電することであった。
 クラブ会員は、ニューディールNew Deal政策や孤立主義や武力干渉について、国の態度をあれこれと議論していたが、今や、そのようなことは、すべて忘れ去られて、手に手を携えて、新しい大同団結が表明された。
 その日の卓話者は、日本についての権威者であるノースウエスタン大学のウィリアム・マックギャバンWilliam M. McGovern教授であった。
 彼は新しい視点に立って、敵の社会的慣習ややり方を聞き手に教え込み、彼らの前に立ちはだかる苦しい戦いについて覚悟させた。
 直ちに、すべてのクラブ委員会の集中的な再編成によって、多くの機能が戦争活動に関する新しい委員会に併合される事態となった。
 直接的な手段として、従業員のモラルを高めることによって、軍需品の生産を増大させる方策がとられて、これは急速にクラブの主要な活動目標の一つになった。
 40にものぼる、産業プラントを指導する検査項目が作られ、結果的には、シカゴ地域における職業モラルを引き上げる基本計画に発展した。
 その年、1941年のクリスマスには、シカゴ・ロータリークラブは、36,000個に分けられた品物を、1,500所帯の貧しい共同住宅に住む家族を含む、恵まれない人々に分配した。
 クラブが選抜した750名の人たちが、10,000トンの巡洋艦USSシカゴに乗船した。
 要望に応えて、人々に対する何百にものぼる個人的な奉仕を含めて、無料のタバコやキャンディーバーや小間物類をきっちり配るのは、並大抵のことではなかった。
 防空演習は、シカゴの民間防衛組織を作るきっかけとなった。それは行政当局や新聞社や他の機関の援助を得て、ロータリーの委員によって始められたものであり、本番さながらのものが実施された。
 クラブの役員や会員中の財政専門家は、全体の問題として、非戦時下の経費に対する政府の経済政策の必要性に気づいた。
 そこで、戦争活動委員会は、クラブで採用された強い勧告書を準備した。それは、イリノイ州の納税者同盟Taxpayers Federationや提携している団体に郵送されて、不必要な経費を削減するための大きな力となった。
 クラブは、ビクター・ドレイスクVictor C. P. Dreiske会長の1カ月に1万人以上の海軍の新兵を、第9海軍管区に参加させるという、彼の個人的な運動方針に、全面的な道徳的支持を与えた。
 クラブの多くの会員が、個人的に、国防債券の販売を促進するための演説のハード・スケジュールに没頭したり、灯火管制と空襲警報に慣れるように市民を助けたり、本の配給や検閲やその他の制限的な手段の必要性を説くセールスマンとして奉仕した。アメリカや我々の同盟国にちなんで、クラブが"国連の日United Nations Day"というプログラムを催したことから国連United Nationsという言葉が誕生した。
 連合奉仕組織United Service Organizations Inc.が設立されて、今や、シカゴ・ロータリークラブの会員と夫人の双方から積極的な支持を受けた。
 新聞発行のフランク・ノックス大佐Col. Frank Knoxというクラブ会員が、海軍の秘書官として特別に勤務するために、ルーズベルト大統領の内閣に参画した。
 これらのことは、戦時下に、一部の者が代表としてほとんど無限に近い奉仕をしただけではなく、一般的に、会員が個人的に行ったことでもある。
 多くの感謝の表現がなされたが、クラブ自身は、その第二次世界大戦の名誉ある戦士として、それぞれの立場で敵に挑むために陸軍・海軍・空軍の兵士として出撃し、勝利をおさめた、22名の会員を最高の誇りとしている。
 彼らの大部分は、順次、クラブ会員に復帰し、人類の新しい理想に向かって仲間たちを指導している。
 この戦争は果たして、二度目の「戦争を終える戦争」であったのだろうか?
 勝利から20年後に、戦争の恐怖は永遠に終わりにすべきであるという神の思し召しとして、クラブはたぶん、そのことに触れるであろう。
 原子爆弾の恐怖は我々の理解をはるかに越えたものであり、我々は、地球上でお互いが、いかにうまくやっていくかを学ぶ必要がある。
 その結果がでるよう、シカゴ・ロータリークラブは静かに神に祈り続けたい。
  
  <Golden Strand ゴールデン・ストランド- Oren Arnold著
        田中 毅 PG訳>


※ シカゴの政治状況-民主党マシーンの形成を振り返る!
 シカゴはニューヨークに比べて若い都市であり、19世紀半ばに飛躍的に発展した。
 1870年に人口は約30万人に達したが、その半数(48.4%)は移民系であった。
 移民系の構成をみると、ニューヨーク市と同様にアイルランド系とドイツ系が多かったものの、スカンジナビア系がかなり多く含まれていたことが、シカゴの特徴である。
 世紀転換期にはこの都市にも新移民が押し寄せたのであるが、そのほとんどはユダヤ系、チェコ系、ポーランド系、イタリア系であった。
 政治状況についていえば、シカゴには二党対立の伝統があった。19世紀半ば以降、民主党と共和党の争いは、各政党内の抗争をともないつつ続いていた。そのため世紀転換期にいたっても、市政レベルの選挙で民主党が、連邦と州レベル選挙では共和党が成功をおさめることが多いという複雑な対立の構図がみられた。
 党組織は中央集権化しておらず、それぞれの選挙区リーダーが独立した行動をとる状況にあり、彼等の間で離合集散が繰り返されていた。
 リンカーン・ステフェンズにいわせれば、政党組織は「徒党(rings)」に支配されていたのであって、・・・・それらは主要な企業に支持され、また利用されていたのであった・・・・。」
 19世紀末までに、市会議員の多くは、企業に有利な条例や許認可を金で売り渡すほど腐敗していた。
 民主党内では、ワスプとはいえ移民系にも個人的人気が高かったハリソン父子派(Carter H arrison T&U)とアイルランド系のホプキンズ(John P. Hopkins)・サリバン(Roger Sullivan)派が対立を続けていた。
 アイルランド系は他の都市同様、おおむね民主党下部組織を握っており、また、アイルランド系有権者の民主党支持傾向は強かった。
 一方、非カトリックばかりでなく、イタリア系のようなカトリック新移民の間にも共和党支持傾向がみられた。つまり、20世紀初頭のシカゴで、民主党は移民系の支持を確実なものとすることができないでいた。
 シカゴの政治といえば、第2次大戦後、1970年代まで強大な影響力を行使したリチャード・デイリー(Richard J Daley)をボスとする民主党マシーンのイメージが強いが、デイリー・マシーンにつながる党組織の基盤が形成されたのは、第1次大戦以降であった。
 19世紀末から第1次大戦までのいわゆる革新主義時代、シカゴ民主党は共和党との競合関係に加え、市政 改革運動によって大きな影響を受けた。
 そしてそのことは、次に述べるように、民主党マシーンの組織基盤形成と関連があった。
 19世紀末にシカゴの改革者は選挙区レベルで活発に活動し、多くの市会議員が収賄をおこなっていると糾弾し、その結果、批判の対象となった議員のほとんどは、姿を消していった。しかし全市レベルでおこなわれる市長選挙では、改革者同士の足並みをそろえることが難しく、1897年、1899年、1901年、1903年と連続して民主党の選挙区リーダーの支持を得たカーター・ハリソンUの当選を許した。
 しかし1905年の市長選挙ではハリソンが出馬しないことになり、改革派のダン(Edward Dunne)が民主党候補として出馬し、当選するにいたった。彼は改革派といっても市政の「能率と節約」をまず重視するエリート層よりも、既存の政党に不満を持つアイリッシュをはじめとする移民系労働者層の支持を受けて公益事業の市営化を主張する人物であった。
 彼は1907年に再選をめざして失敗したが、これを契機に彼を支持する移民系労働者票は民主党に飲み込まれていった。そのため、民主党はマシーンの支持基盤を強化することができたのである。
 こうしてシカゴの民主党は改革者の挑戦と共和党との競合関係に直面する過程で、徐々に基盤を広げていった。
 新移民の帰化、投票登録に関しても、シカゴ民主党は他地域、例えばニューヨークの民主党クラブである「タマニーホール」に比べて、より熱心であったといわれる。その結果、1920年には、チェコ生れの57%、ポーランド生れの35%、ロシア生れ(4分の3がユダヤ系)45%、イタリア生れの35%が帰化していた。
 アイルランド生まれ、スウェーデン生まれ、ドイツ生まれ、ノルウェイ生れの70%以上が帰化していたのに比べると新移民の帰化率は低かったものの、その後、共和党との新移民獲得争いが激化したため、格差はかなり縮まっていった。
 1928年に行われた調査では、投票区の民主党責任者のうち70%以上が帰化手続きの手伝いをしていると報告されている。その結果、1930年には外国生れの居住者の3分の2が市民権を取得していた。
 また、共和党に対抗して党の支持基盤を固めるために、民主党は新移民を党組織のリーダーや市政府の官職にも積極的に登用した。たとえば、1922年から30年までに、選挙区リーダーの非アイリッシュ率は、39%から50%へと高まった。
 こうした新移民の政治的動員過程で最も活躍したのが、ボス・サーマック(Anton Cermak)であった。
 サーマックはシカゴ民主党現代史上、初の非アイルランド系大ボスであった。ボヘミア生れのチェコ系であり、前任のアイリッシュボスと比べて、民主党支持基盤としての新移民の重要性に、より敏感であった。
 彼がシカゴ民主党でトップの座についた理由として、民主党内で最も影響力のあったアイルランド系に対抗して、南欧・東欧系の新移民を支持層に取り込むことに熱心であった点がある。
 彼自身はプロテスタントであったが、政治的計算もあって、カトリックの女性と結婚し、子供をカトリックとして育てたと言われるほどである。またユダヤ系とも連携をはかることを忘れなかった。
 とはいえ、アイルランド系とたもとを分かっていたのかといえば、決してそうとは言えない。
 かれはあくまで多民族の連合に基礎を置く政党組織作りをめざしたのである。
 またサーマックはアイリッシュ系の中でも、新しいタイプの有望な政治家であるパット・ナッシュやジョウ・マクドナウ(Joe McDonough)と友好関係を結んでいた。
 1920年代のシカゴには、従来からの古いタイプのアイルランド系政治家に対して、新時代のリーダーが生まれていたのである。
 前者が酒場やギャンブル場を根城として、政治家個人のとりまきを中心として活動するタイプの政治家であったのに対して、後者は学歴が高く、法律・銀行・建設・不動産・保険関係の専門職に就いており、統制のとれた民主党組織を望んでいた。
 サーマックはナッシュたち新時代のアイリッシュ・リーダーと結んで、シカゴ民主党マシーンをまとまりのある強力な組織としていった。その過程で、サーマックはハリソンなどの古いタイプの政治家との関係を決裂させることなく、むしろ新旧のアイルランド系政治家グループの間に立ち、橋渡しの役割を果たしたといえるのである。
 彼が1920年代にシカゴを含むクック・カウンティー行政委員長をつとめていた時には、その大きな官職任命権をもってシカゴの主たるエスニック・グループすべてに役職を配分した。
 またカトリックのアイルランド系や新移民の支持を確保するため、禁酒法や移民制限法に反対する姿勢を明確に打ち出したが、この戦略は功を奏して、イタリア系やドイツ系の一部もサーマックを支持するようになった。
 さらに1920年代まで確実な共和党支持者であった黒人の間にも民主党支持者が生まれると、サーマックは様々な市の役職に黒人を任命した。これはかつての民主党リーダーにはみられないことであった。
 最終的に1930年にシカゴ民主党トップとなったサーマックは、翌31年市長選挙で、イタリア系と黒人を除くすべての民族グループから過半数の票を獲得して当選した。
 特に新移民グループからは、過去に例を見ないほどの圧倒的支持が寄せられた。例えばチェコ系の84%、ポーランド系の70%、ユダヤ系の61%がサーマックに投票したのである。
 サーマックは市長就任後も、市長選挙で彼に対する支持率が低かったイタリア系と黒人を民主党陣営に取り込む努力を惜しまなかった。その結果として、シカゴ民主党にもイタリア系リーダーが出現し、また民主党黒人組織が黒人自身のリーダーシップの下で創設された。
 サーマックはニューヨークのボスと異なり、都市政治の状況が変化していることに敏感で、その変化に巧みに対応していったのである。
 マス・レベルで新移民を積極的に動員して支持基盤を拡大する一方で、サーマックは中央集権的で統制のとれた党組織を作り上げた。1928年のブレナンの死後、シカゴを含むクック・カウンティの党中央委員長となった彼は、31年にシカゴ市長に当選したのを機に、委員長の座をナッシュにゆずったものの、ナッシュを通じて、党組織を支配し続けたのである。
 つまりボスとしてサーマックは、市長になるとともに、クック・カウンティ民主党マシーン組織を実質的に直接統括した。彼はシカゴ市政府とクック・カウンティ民主党組織が能率的に機能するようにと配慮し、時には結果的に忠実な党員にうとんじられることになったとしても、市政府の予算カットや雇用削減を行うことをいとわなかった。
 また、シカゴにおけるすべての選挙区の有権者投票率に関する統計を分析して、民主党の得票にどのくらい貢献したかを基準に、党の選挙区責任者やその下で働く人々の賞罰を評価したといわれる。
 こうしてサーマックは党組織を充実させる一方で、多民族グループ連合を形成していく方針を貫き、その後40年以上にわたって維持されることになった強力な民主党マシーンの基礎を築いたのであった。
 〔「アメリカ都市政治の展開-マシーンからリフォームへ、平田美和子著、
    2001/3版、勁草書房より抜粋〕


※ ポール・ハリスの言葉
  政治屋(Politician)はもう沢山です。今必要なのは、政治家(Statesmen)です。 
     ( ロータリアン誌、1918年3月号)

  人の違いも国の違いも、基本的には大差がないのです。何もかも良い人も国もないし、何もかも悪い人も国もありません。不和は誤解から生まれます。
     ( ロータリアン誌、1944年7月号)



※ ロータリーの危機、そしてロータリー(シカゴRC)と政治
 ロータリーの歴史を振り返れば、深刻な危機が何回となくロータリーを襲い、それを見事に乗り越えていった歴史的事実があります。最初の危機は1907年から1910年にかけて起こった「親睦か、奉仕か?」を巡る論争で す。
 原始ロータリーは、会員相互の親睦と事業の発展を願ったエゴイズムに満ちた出発であり、そこに社会に対する奉仕という概念が打ち込まれたことによって混乱が起こります。
 それを打開する手段として、ロータリークラブ連合会が設立され、奉仕理念や拡大といったクラブの親睦を阻害する可能性のある事項を、ここで扱うことによって、最初の危機を脱することができました。
 第2の危機は1923年の「奉仕活動の実践」を巡る論争です。
 ロータリーの活動の主流は、職業奉仕の理念に基づく活動であると主張する一派と、世の中に不幸な人がいる限りそれを救済するのが先決であるという社会奉仕活動に重点を置く一派との論争です。
 これは、「I serve か We serve か?」、精神的活動か金銭的活動かにまで発展して、まさにこれもロータリー分裂の危機を孕んだ論争になりました。
 これは、決議23-34によって、職業奉仕理念をロータリーの哲学におくことを前提としながら、一定の枠をおきながらも団体的、金銭的奉仕活動を認めるということで回避したわけです。
 そして、第3の危機は、1929年から第2次大戦にかけて起こった、ロータリーに対する逆風です。
 1929年10月、ウォール街の株価暴落に端を発した世界大恐慌は悪化の一途をたどります。それに追い討ちを掛けるように、1930年、ロータリーの奉仕理念の提唱者であったフレデリック・シェルドンが、突如ロータリーを去ります。
 1929年のダラス国際大会で、彼のモットー" He profits most who serve best " を廃止しようという決議29-7が、RIBIから提案され、これを支持するクラブがアメリカからもかなり出たことや、決議23-34で制限がかけられたはずの奉仕活動の実践が、「身体障害児童の救済事業」として、同大会で決議されたことが原因だ!、という人もいますが真偽のほどは定かではありません。
 シェルドンという偉大なる精神的な基盤を失ったロータリーは、経済的不況も加わって、急速にその勢力を殺がれていきます。
 1932年12月のシカゴ・クラブの統計によれば、会員数670名の内、半期60%の出席義務を満たさなかった会員は213名に上っており、クラブ管理そのものが破綻していたことが窺えます。

 この時期のシカゴ・クラブの入会者と退会者を一覧すると、退会者が激増
 している状況が一目で判ります。

 〔1922-23年度〕 入会者は59名、退会者は54名、差引で+5名
 〔1923-24年度〕 入会者は65名、退会者は71名、差引でー6名
 〔1924-25年度〕 入会者は72名、退会者は50名、差引で+12名
 〔1925-26年度〕 入会者は75名、退会者は57名、差引で+18名
 〔1926-27年度〕 入会者は106名、退会者は50名、差引で+56名
 〔1927-28年度〕 入会者は98名、退会者は61名、差引で+37名
 〔1928-29年度〕 入会者は113名、退会者は49名、差引で+64名
 〔1929-30年度〕 入会者は109名、退会者は58名、差引で+51名
 〔1930-31年度〕 入会者は86名、退会者は82名、差引で+4名
 〔1931-32年度〕 入会者は73名、退会者は89名、差引でー16名
 〔1932-33年度〕 入会者は62名、退会者は101名、差引でー39名

 世界の統計をみても、1932年から1935年と、1941年から1944年に
 かけて(これは第2次大戦によるもの)会員数が減少しています。
 《世界全体でのRI クラブ数&会員数の統計-No.1》

 〔1931-32年度〕 クラブ数は3,460クラブ、会員数は157,000名
 〔1932-33年度〕 クラブ数は3,514クラブ、会員数は155,000名
 〔1933-34年度〕 クラブ数は3,596クラブ、会員数は146,300名
 〔1934-35年度〕 クラブ数は3,692クラブ、会員数は150,000名

 この状況に危機感を抱いたシカゴ・クラブ会員ジョージ・ハーガーは、1933年、シカゴ大学社会科学調査委員会に対して、シカゴ・クラブの徹底的な分析を依頼します。
 同委員会は、アンケートや提供された資料を基にして、翌34年に報告書「ROTARY ー 」を出版しました。しかしその内容があまりにもロータリー運動に批判的であったため、ポール・ハリスは、ほぼ完成の域にあった彼の著作「This Rotarian age 」の発行を遅らせて、その内容を書き直したという逸話が残っています。
 1929年から始まった世界大恐慌は悪化の一途をたどり、1932年に共和党のフーバー大統領に代わって、民主党のルーズベルトが政権を取りました。
 1933年のシカゴ・クラブのアンケートによると、共和党支持者72.59 %、民主党支持者8.64 %であることからも解るように、圧倒的なロータリアンの支持を受けていた共和党のフーバーが破れて、ライオンズの支持の多かった民主党が政権をとったわけです。
 その直後に、ララミー・クラブの副会長を務め、その1927後RI 事務局に勤務していた、ポール・ハリスの弟のレギナルド・ハリスがロータリーからライオンズに鞍替えするという事件が起こります。
《年から1932年までレッグはロータリーの場で働きましたが、勝ち馬に賭けることを欲した彼は、ライオンズに移籍し、それ以来、私たちと共にあるのです- Lions International 公式文書 田中 毅PG 訳》
 1933年3月に発足したルーズベルト内閣は、直ちにニューディール政策を打ち出して、金本位制の廃止、TVA 開発などの公共事業の創出、国家産業復興法に基づく企業活動と労使関係を規制する政策を実施しました。
 ロータリアンを中心とする実業界と対立を深めながらも、一応経済危機を回避したかのように見えたニューディール政策も、結局は効を奏せず、1937年の夏には「恐慌の中の恐慌」と呼ばれるほどの危機的状況を迎えます。
 そこでアメリカ政府が選択した道は、当時、緊張が高まりつつあった国際情勢を利用した軍事産業の積極的な育成であり、アメリカ経済は戦時体制の下で、やっと不況から抜け出すことに成功するのです。

  《世界全体でのRI クラブ数&会員数の統計-No.2》
 〔1935-36年度〕 クラブ数は3,842クラブ、会員数は162,400名
 〔1936-37年度〕 クラブ数は4,004クラブ、会員数は170,000名
 〔1937-38年度〕 クラブ数は4,335クラブ、会員数は183,000名
 〔1938-39年度〕 クラブ数は4,714クラブ、会員数は200,998名
 〔1939-40年度〕 クラブ数は4,967クラブ、会員数は209,887名
 〔1940-41年度〕 クラブ数は5,066クラブ、会員数は213,791名
 〔1941-42年度〕 クラブ数は5,058クラブ、会員数は211,416名
 〔1942-43年度〕 クラブ数は5,069クラブ、会員数は208,363名
 〔1943-44年度〕 クラブ数は5,174クラブ、会員数は209,689名
 〔1944-45年度〕 クラブ数は5,213クラブ、会員数は227,913名
 〔1945-46年度〕 クラブ数は5,441クラブ、会員数は247,212名
 〔1946-47年度〕 クラブ数は5,828クラブ、会員数は279,881名
 〔1947-48年度〕 クラブ数は6,234クラブ、会員数は300,529名
 〔1948-49年度〕 クラブ数は6,540クラブ、会員数は318,259名

 《世界全体でのRI & RC -1クラブ当たり平均会員数》
 〔1910-11年度〕 クラブ数は16クラブ、  平均会員数は94名
 〔1920-21年度〕 クラブ数は758クラブ、  平均会員数は75名
 〔1930-31年度〕 クラブ数は3,349クラブ、 平均会員数は46名
 〔1940-41年度〕 クラブ数は5,066クラブ、 平均会員数は42名
 〔1950-51年度〕 クラブ数は7,113クラブ、 平均会員数は48名
 〔1960-61年度〕 クラブ数は10,701クラブ、平均会員数は47名
 〔1970-71年度〕 クラブ数は14,364クラブ、平均会員数は47名
 〔1980-81年度〕 クラブ数は19,339クラブ、平均会員数は46名
 〔1990-91年度〕 クラブ数は25,582クラブ、平均会員数は45名
 〔2000-01年度〕 クラブ数は30,149クラブ、平均会員数は39名
  (「ロータリーの源流」、田中毅PGより抜粋)



※ 市民運動の発展(アイザック・ウオルトン・リーグ)
 1922年、シカゴにアイザック・ウォルトン・リーグという自然保護団体ができた。54人のハンターと釣り師が集まって結成したのだが、彼らは次第に獲物が少なくなってきたのを心配して「獲物の保護およびその周辺の保全」をスローガンにした。
 ヘッチヘッチー・ダム論争などを経て、アメリカ各地に「自然を守ろう」という動きがでてきたが、これもその一つの現れであった。
 それまでシエラ・クラブや全米オーデュボン協会といった団体が上流階級中心のクラブだったのに比べ、ウォルトン・リーグは、一般大衆を対象に、しかも会報に婦人欄を設けたり、素人でもすぐに溶け込めるような雰囲気を造り上げたため、三年後には10万人を超える会員を獲得した。
 シエラ・クラブや全米オーデュボン協会が数千人程度の会員だったことを考えると、当時としては驚異的な数字と言える。
 ところで、全米オーデュボン協会もこの頃、独特な方法で将来の基礎を築いていた。「ジュニア・オデュボン」という子供会員組織を開発し、1915年にはすでに15万人以上の会員を獲得していたのである。
 子供会員一人につき10セントの赤字に苦しんだが、この努力が後の発展の原動力になった。
 アメリカの環境保護運動は、日本の昭和初期にすでに10万人規模の市民団体に成長していたのである。
  ( 「アメリカの社会」、猿谷 要編、弘文堂より抜粋)



※ ロータリーと政治、さらなる高みを目指して!

  -さらにもう一つ、長い討議が始まった。"ロータリーと政治"、
   如何にして、そしてどこに、一線を画すべきか?
 
 ミネアポリス大会がロータリー財団の構想について何か手を打つべきであると決意したのは1928年のことであった。
 この構想は、1917年に当時ロータリークラブ国際連合会会長であった故アーチ・クランフが、人類に対してロータリーが「教育面において何か大きな奉仕」をすることができるようにするために基本財産を設定する提案をして以来、国際大会の決定処理を待っていたのである。
 1928年に決定された立法規定は、ただその発端に過ぎなかった。1917年に播かれた種は発芽したのであったが、次の10年間に見られたものは試験的生育に過ぎなかった。この構想が実を結ぶまでにはさらに10年の歳月を要した。
 その物語はこの講を進めるにつれて繰り広げられるであろう。
 1923年に決議34号が採択されたことによって、社会奉仕の分野における長い間の論議が終わった。
 しかし、それに劣らぬ激しい論争の時代が新たに始まった。そしてこの論争は、ロータリーが真に国際的な組織としての規模を拡大したことによって、遥かにより広い分野にわたって行われたのであった。
 "考え方において相拮抗する分派"があったにもかかわらず、ロータリーが存続してその目的を達しようとするならば、ロータリーは非政治的組織であることが不可欠であろうという理解は、既に早くから彼等の間に確立されていた。
 この方針が基本的に賢明であることに異論を唱える者はほとんどいなかった。
 しかし、何が政治的であり、何が政治的でないかを判別する分岐点を見い出す問題は、本質的にそうなのではないかもしれないがある程度各人の見解による問題であるということは、大多数の人々の一致するところであった。
 ロシアも中国も、そしてその他の、若干のより小さい国々も、ロータリークラブを設立する問題は政治的な問題だと考えている。
 そして、われわれが忘れてはならないことは、幾つかの国々で共産政府或いは名称は異なっても他の全体主義政府が政権をとった時は、ロータリークラブはたちどころに解散させられたという事実である。
 しかし、それよりもわれわれがもっと関心を持っているのは、道理をわきまえた -ロータリアンはすべてそうでなければならないのだが- ロータリーが栄えている、道理をわきまえた国々のクラブ会員達が、何が政治的であり何が政治的でないかを判別するのに迷うことがあるという事実である。
 1929年に国際ロータリー理事会は、これについて明確な決定をする必要を認めた。
 国際ロータリーに対して米国の関税法を改正する件に関して合衆国議会に働きかける手を打ってもらいたいという懇請が、いろいろの方面から国際ロータリーに寄せられた。
 次に掲げるのは、それに関する理事会声明の抜萃である。
「国際ロータリーの国際関係が絶えず拡大されていくにつれて、多くの経済的な問題が起こってくるが、これらの問題は、利害を同じくする国々の国民であるかそれとも利害相反する国々の国民であるかによって、ロータリアンに与える影響は異なってくる。
 国際ロータリーは国家間の紛争や政治的紛争の種になっている事柄については一切干渉しない。」
 クラブ定款第9条は長い間、「公共問題」という題の下に次のように規定されていた。

第1節-
「地域社会の全般的福祉は本クラブ会員の関心事である。従ってこのような福祉に関連する公共問題は、クラブの各会員がその個人的意見をまとめる上の啓発手段としてクラブの会合で、公正に、理知的に研究し、論議するがよい。」
第2節-
「本クラブは公職に対する立候補者を応援したり、推薦したりしてはならない。またクラブの会合においてこれらの立候補者の長所や短所を論議してはならない。」

 定款細則の中で、あらゆるレベルの責任の地位にあるロータリアンが、この条文ほど熟知している条文は他にはないであろう。概していえば、この条文はよくその目的を達したといえる。
 しかし、この問題が執拗に表面に顕われ続けたことは、極めて最近、1970年のアトランタ大会において、この条文を修正する制定案が採用されたことを見ても明らかである。
 標準クラブ定款第9条は、国際奉仕に関する国際ロータリーの確定方針と調和するように修正されたのである。
 元の条文の言葉づかいは依然としてそのまま残っている。
 しかし、標題が「公共問題」から「地域社会、国家および国際問題」に変更されたその標題の精神を反映するように条文が拡大されたのである。
 ロータリーの考え方と方針の進化を、これほどよく示すものがほかにあろうか?
 「公共問題」という、教区のばか者を思い出させるような低音から、「地域社会、国家および国際問題」という、一つの世界の人類同胞という調子の高いものへの転移。
 しかし、1920年代のロータリアン達が拠り所として邁進していた基礎が健全であったからこそ、それから五十年後にわれわれがその上部構造に、さらに付け加えることができるのだという事を忘れてはならない。
 ロータリーの方針のこの困難な段階における転換期は1940年度中にきた。
 しかしそれはまた、それ自体が別の物語である。
 ( ROTARY MOSAIC、ハロルド・T・トーマス著 より抜萃)



※ ポール・ハリスの言葉
偉大な運動を研究すると、その発展は、個人の発展と似ているように思われます。形成期は初期です。
若い心は、感受性に富み、成熟すると、落ち着いてきます。運動も年を経ると、定型化するようになります。
伝統が正当な判断力の行使を妨げます。先例を尊重するようになり、先例が必要以上に重要性を帯びてきます。
価値もないし、不合理なことが、今までそうであったから、という理由だけで継続されます。
存在理由が、かってあったとしても今はないことが明らかでも誰も先例を敢えて破ろうとしません。
形式に精神が伴わないようになっているのです。
(1930年、シカゴRI国際大会でのメッセージ)

ロータリーの水準と理想を高く掲げ続けることの重要性は、いくら強調しても強調し過ぎることはありません。
ロータリーの倫理の大空に希望の星が高らかに輝かなければなりません。
希望の星が高すぎるということは、まずありえないでしょう。
どこからでも目指して努力できるくらいの高さであることを私は願っています。
(ロータリアン誌、1912年9月号)